「法話のゆくえは」

 

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第1章 長期低落右肩さがり、堕ちつづける浄土真宗本願寺派の法話

 

浄土真宗の僧侶の法話の魅力がなくなった。お坊さんの言葉の力がなくなった。なぜなのだろうか。宗派の年間予算は、わたしが40代の頃(30年まえ)は、年間87億円だったものが、半減に近づいている。明治初期は京都市の年間予算よりも本願寺の収入が多かったのだ。時代が激しく変わって、現代人の宗教離れが起こっているとか、社会状況や人々の心の移り変わりに原因を探す僧侶もいるが、全くの検討ちがいである。

 

たとえば「本願寺」という看板の老舗のラーメン屋があったとする。この頃とんとお客が減って収入もガタ堕ち。この時、事業主(店長)がまず考えることは、「うちの店のラーメンをお客様が喜ばなくなったのはなぜか」、「味が悪いのか」、「店内の環境が不衛生なのか」、「自分をはじめ店員の接客態度がお客様に不快感をあたえているのか」と、「どうすれば生き残って、お店を守れるのか」という生き残りをかけた反省である。もう一度初心に還って「味の研究」である。世の中のせいにしたり、お客様のせいにして、客離れの原因を外に外に探すのは馬鹿である。さっさと店じまいをするしなかない無能者である。自分の不誠実、自分の傲慢、自分の怠慢無能を恥じないのであれば、軌道修正はもうできない。堕ちていく先は、倒産しかない。ラーメン屋さんの倒産・店じまいはまだいい。テンポを売り払って転職するという道が残っている。しかし、お寺は、人が来なくなった伽藍が立ち続けている。人に見放されても維持していかねばならない。無残である。
ラーメン屋さんが人生をかけて、命がけで美味しいラーメンをお客様に食べてもらって喜んでほしい、そのためならどんな苦労もいとわない。その根性を見習わねばならない。ラーメン屋さんだけではない日本全国の飲食店のご主人が、日々その努力と反省を持ちつづけておられるのである。お客様の喜びに支えられて、はじめてお店の繁盛がある。

 

ならば、本願寺並びに本願寺派のお寺の勝負の味は何かと言えば、「お坊さんの法話」、「お坊さんの言葉」以外にはない。寺院活動や教団運営には、もちろんいろんな要素があり、変化し続ける現代社会に対応するために、「子ども食堂の運営」、「災害ボランティアの養成」等々、様々な分野が考えられていることはわたしも知っている。そのお寺の状況に合わせて、「いま出来ること」を取り組まれたらいい。けれども浄土真宗存続の生命線は、社会活動ではなく、「独生独死」の「独りの人」を救うことである。駅前掃除・ゴミ拾い・ボランティア・子ども食堂・独居老人の見回り訪問、孤独老人の心の傾聴 ・・・・・・・・ どれも大事なことではあるが、仏教他宗派も新興宗教も新宗教もやっている。浄土真宗よりも活発で訓練されているといってもいいほどである。そういう宗派・団体との競合関係に、門徒とりわけ今日までご苦労の人生を地道に耐え忍んで生きてこられた高齢な門徒を巻き込むのはやめてほしい。結局それは宗派や住職の世間への体面つくろいであって、善人づらのほかの何物でもない。浄土真宗の背骨はそこではない。独自性は、存在理由はそこにはないのである。「お寺のある人生、お念仏のある人生」で良かったという「その人に届いた味」が「その人」を救うのである。そうであるならば、法話の言葉は、眼前の「独り 独り」の心の一番深い琴線に届くものでなければならない。お坊さんの言葉が、涼風だとしたら、眼前のご門徒は風鈴である。その人の心の一番中心で玉が揺れて、「あっ、わたしもそうだ」、「仏法とはまさしくわたしのことだった」と、その人の心の音が鳴る法話でなければならない。

 

有り難いことに、南九州の浄土真宗のご門徒は、お葬式のあとの初七日から七七日(49日)まで、家族連れ、親戚連れで毎週お寺参りをされる。しかし、49日を過ぎたら、今度いつお会いできるか保証はない。お互いに生身の人間なのだから一期一会で、一回一回のご縁が人生最後のご縁と覚悟した方がいい。ラーメン屋さんだって、お寿司屋さんだって、そう思ってお仕事されているのではないだろうか。

 

僧侶養成、布教使養成に失敗した教団

 

本願寺教団や宗門学校の指導的立場にいる方々は、自分たちの「僧侶養成、布教使養成」が完全に失敗してることに気づいていないのではないだろうか。「この頃の若者の不勉強」のせいにして、自らの「僧侶養成、布教使養成」の「方法論」と「実技トレーニング」を相対化し、徹底的に反省するという態度を、わたしは感じたことがない。指導者は「この頃の若者のせい」、住職は「門徒のせい」にして話をすませているのは、単なる間抜けである。そんな指導者を時代は必要とはしていない。だから、わたしは、「本願寺布教団」なる集団依存症の人間の集まりは早々に解体するがいいと思っている。上層部からテーマや方針が降りてこなければ考えようとしない僧侶を育ててどうするというのか。むしろ相乗劣化親睦会になっているのではないか。

 

明治の仏教者:清澤満之は、「独立者は生死の巌頭に立つ」という言葉を遺している。評論家:小林秀雄は、作家協会を嫌った人である。「思想の共同分配」という妄想をバッサリ切って否定した人である。文体とリズムのない思想などない。思想とはまさしく孤独者その人の心身であり、人生である。哲学者:西田幾多郎は、最後の著作『場所的論理と宗教的世界観』の中で、「我々の自己が神に対すると云ふのは、個の極限としてである。何処までも矛盾的自己同一的に、歴史的世界の個物的自己限定の極限に於て、全体的一(神)の極限に対するのである。故に我々の自己の一々が、永遠の過去から永遠の未来に亙る人間の代表者として、神に対するのである。」と述べている。「みんなで手をつないで、共通言葉を持ち合って、如来(全体的一)の真実に出会いましょう」というような組合員根性は、もうその浅はかな方法論において宗教者の姿勢ではない。わが師大峯顯は、「宗教哲学って言うのはね、片足を棺桶に突っ込んで考えるってことだよ」と、わたしに語られた。西田と同じ的の中心を射ている。

 

大峯顯がまだ40代の頃、夜が来ると自分が死ぬことがヒシヒシと迫ってきて、「死ぬのが怖い」と毎夜苦しんだ。近隣にもお坊さんはたくさんいたけれど、「自分の生死」を相談できるほどの人物はいないと思った。京都大学学生時代の宗教哲学の恩師:西谷啓治先生に会いに行かれた。大峯顯は、西谷先生に自分の悩みを正直にうちあけられた。西谷先生は横を向いて黙って最後まで聴いておられたが、長い沈黙のあと、「大峯さん、あなたの死がこわいとヒシヒシと迫ってくる想いは、夜だけですか」と聞かれた。「はい、いまのところ夜だけです」と返事をすると、また長い沈黙が続いたあと、「それが一日中になったら、もっといいね」とポツッと言われた。大峯顯は、「自分は異常じゃない。これでいいんだ」と救われたという体験を、わたしに何度も何度も語ってくださった。「西谷啓治」という名前を思い出すだけでうれしいと、生涯語っておられた。わたしは、この二人の緊張の場面を眼前に見る想いがする。宗教問答というのは、こういう張りつめた琴線のことなのである。

 

蓮如上人は、「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰せ候ひき。」『蓮如上人御一代記聞書』 とおおせである。人間が集団化するとろくなことはない。集団依存に慣れきって、「自分独りの血を吐くような言葉」を失うのである。自分独りの問いを立て深める努力を忘れて、先輩や仲間と同化し馴れ合う「俗世間坊主」に成り下がるのである。坊さんの実力とは「あれも分かった。これも覚えた」という早わかりのことではない。大峯顯は、「なぜ名(名号=言葉)が救いか」という問いを立てて、その問いを持ち続け、問いの岩盤のまえに何十年も立ち続けた哲学者である。問いを持ち続けて誤魔化さない、いいかげんな答えで満足しない者しか本物の僧侶にはなれない。早分かりの教養知識の鎧で固めた自己防衛ほど、危険なことはない。カイコがマユで身を固めたように、もう成長が止まってしまうのである。何度でも脱皮し、何度でも捨てていくのである。『臨済録』で、臨済義玄は、「仏に会ったら仏を殺し、祖師に会ったら祖師を殺せ」(殺仏殺祖)と言っている。つまり、小さな悟りを握るな。止まるなということである。鈴木大拙師は80半ばで書いた「悟り」という文章の中で「悟る者(主体)も、悟る事柄(客体・対象)も無くなるのがよい。悟ったと思ったもの(客体・対象)は、なるべく早く捨てた方がいい」と言っている。なんと若々しい精神ではないか。80半ばまで来てこの弾力性、柔軟心である。
僧侶だけではない。本当の音楽家ならば、人の演奏を5分も聴けば、「あっ、わたしの鳴らしたい音とはちがう」、「この人と一緒にいたら、自分の求めるピュアな音には近づけない。むしろ、音が濁ってしまう」と、相手が先輩であろうが、仲間であろうが、その場を去るのである。孤独を恐れる僧侶が、門徒に「死んでいく時は独りですよ」と言ってみたって「にせ者」なのだ。どんなにうまく言ったと思っていても、それは坊さんの自惚れであって、門徒は「にせ者」を直感している。

 

癌で入院治療している患者は、家族がどれほど隠しても、「もう自分は末期の癌なのだ」と直感する。非行少年は教師の眼を見ただけで、「この人には自分を語ることはできない」と直感する。廊下に迫る足音を聞いただけで、嫌いな教師の音だと直感する。弱く追い込まれた人間ほど、ある意味では真実味に近い。讃仏偈に「一切の恐懼」(一切のおそれおののく衆生)と言い、重誓偈に「一切諸貧苦」(一切の貧しく苦しむ衆生)というのが、まさしく法話者自身であり、聴聞者である。そこまで降りきった言葉にならなければ魂の対話はできない。うわべの言葉、つくろいの言葉はすぐ見抜かれるのである。「その人」の心と語り合うには、自分も裸になるしかない。自分の心底の楽器の弦を探して鳴らせるしかない。だが、いまの僧侶・布教使には自分の言葉がない。宗教を語る自分の言葉がない。これは全く致命的なのだ。わたしはこれを「きなこ団子」と名付けている。中身の団子は味のしない米粉の団子で、60分の退屈な法話の最後の5分で「お念仏の生活をしましょう」ときな粉をまぶして、自分では法話が出来たと自惚れている。なんという鈍感。馬鹿野郎。これで御法礼を出す住職もアホウだが、もらって帰る坊主も泥棒である。住職は、お参りの人数だけ数えて胸をなで下ろしている。門徒は「今日も時間つぶしの無駄だった」と知っているが、それを住職に言うことはしない。なんと言う空疎なお寺ではないか。

 

■第2章

 



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