第4章 絶対無限は名号(言葉)になってはたらく
「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。」 明治の仏教者 清澤満之は、阿弥陀如来と言わず、「絶対無限」いう言葉で、如来を語りました。絶対は相対に対する言葉です。相対的というときは「大小、長短、強弱、高低」等々、くらべ、かぞえ、はかれる、数量化できるもののことです。始まりがあって、終わりがあるものです。絶対というときは「対するものがない」ということです。無限は有限に対する言葉です。有限なものは、始まりがあって、終わりがあります。入口があって、出口があります。有限なものは分割が可能です。有限なもの、たとえば100mのロープの中心は一点しかありません。
しかし、絶対であり無限であるものは、入口も出口もありません。始まりも終わりもありません。絶対無限は、自己を分割することは出来ません。絶対無限をハサミで分割しようとすると、ハサミは絶対無限の外に立たねばなりません。しかし、絶対無限には内も外もないのです。ですから、阿弥陀如来と言っても、浄土と言っても、「わたしが死ぬ」というドアを超えなければ浄土に行けない、如来に会えないと言うのであれば、阿弥陀如来は相対的で有限であることになります。私たちは、今日のまま、凡夫というあり方のまま、もうすでに如来の大慈悲心のうえに乗せられているのです。絶対無限はその大生命全体をわたしに与えています。絶対無限の上は、立つところどの点も中心です。極楽浄土には表門も裏門もありません。
わたしが生まれる前の永遠の過去も、今現在の個体としての生命も、個体の生命が死んでゆく永遠の未来も、そのまま絶対無限の真生命に乗せられ、護られています。永遠の真生命に乗せられているということは、わたしは個我の心も個我の身体も脱ぎ捨てて、如来とひとつになって死なないということです。人間の個我・自我の頑なな心が、不安をつくり、疑いをつくり、孤独をつくり、我という牢獄をつくっています。如来は「南無阿弥陀仏」の声となってくださり、いとも簡単にわたしの閉鎖されていた牢獄の窓を破ってくださったのです。
親鸞聖人は、『仏説無量寿経』を解釈されて、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。」と仰せです。
法蔵菩薩の48願の言葉が極楽浄土です。時間や空間の移動がなければゆけない世界が浄土であるならば、まだ物質性を超えていません。阿弥陀如来は超時間・超空間の真実心です。宇宙さえもその中にあります。南無阿弥陀仏の名号がそのまま阿弥陀如来です。「わが名を称えよ。われを与えるぞ」とお念仏になってくださった仏様ご自身の本願の言葉の大地がなかったら、わたし存在は立脚地を失ってしまいます。どこまでも無明の深淵に沈んでいくしかないのです。絶対無限は、くらべ、かぞえ、はかりが一切ない世界ですから、いま、ここ、わたしの無条件のお救いです。如来の大生命全体が称名念仏となって、わたしと一つになってくださったのです。日々お念仏申しましょう。なんまんだぶ。なんまんだぶ。
■ 下の表を見てください。
A列:阿弥陀如来 と B列:わたし対応表
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A列 | 還相廻向 | 極楽浄土 | 阿弥陀仏 | 絶対 | 無限 | 独立 | 唯一 | 全体 | 完全 |
B列 | 往相廻向 | 娑婆世界 | 一切衆生 | 相対 | 有限 | 依存 | 多数 | 部分 | 不完全 |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
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不可思議 | 非対象智 | 超個我 | 超時間 | 超空間 | 超因果 | 自由 | 本質 | 言語誕生 | 海 |
思議分別 | 対象智 | 個我 | 時間 | 空間 | 因果 | 束縛 | 属性 | 言語帰順 | 魚 |