■第6章

 

第5章 お寺が自動車教習所だとしたら?

 

■譬えは悪いが、お寺が自動車教習所だとしよう。自動車教習所は、生徒に学科と実技を教え、1ヶ月位で仮免許・本免許の試験に合格してもらい、交通法規を守って自由自在に一人で安全に運転できる人になってもらうことをめざしますね。生徒からは入学金と月謝をもらいます。これが20年経っても、30年経っても、免許に合格せず、一人で一般公道を走れず、学校の練習コースでのみ、助手席に教官を乗せて車を運転して、月謝を納め続けているとしたらどうでしょうか。これはボッタクリの詐欺ではありませんか。

 

■お寺に来た時だけ「なんまんだぶ」の声がでる門徒。婦人会や壮年会の仲間や住職といる時だけ、仏法の話がでる門徒、住職。集団化して仲間意識はあるのだけど、家でも田畑でも車の運転中でも、独りの時に称名念仏がでない門徒、僧侶。こういうお寺が増えているんじゃないでしょうか。日常会話にならない仏法はにせ物です。いつまで経っても仏法が我がものにならない。信心決定の夜明けが来ない。独りが独りのまま弘誓の仏地に立てない。独生独死の仏法にならない。本当にかなり重傷の集団依存症団体ですね。

 

■何のために法座を開いているのか。何のための法話なのか。焦点がぼけているのでないでしょうか。『蓮如上人御一代記聞書』に、「往生は一人のしのぎなり。一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり。よそごとのやうに思ふことは、かつはわが身をしらぬことなりと、円如仰せ候ひき。」とあります。どんな仲の良い仲間も、最後は独り死を迎えていくのです。いつも熱心にお寺に来られて支えて下さったご門徒も、運転が出来なくなり、高齢者施設に入られたり、大病で入院される日がかならずきます。人生で一番長い時間は、独りの時間です。独り自分の不安と向き合う時間です。自分の生きてきた人生をふりかえって、「なんまんだぶ。なんまんだぶ」と称名念仏の中に、「ああ、これでよかった」と救われているか、どうか。ここの中心軸がぶれたら、お寺はペテン師、詐欺ではないですか。

 

■夫の命日でお参りされた二人のご婦人と、本堂で「正信念仏偈」のおつとめをしました。後をふりかえって法話の中で、家であなたお独りの時に、「なんまんだぶつ。なんまんだぶつ。とお念仏が声に出ていますか」、とおたずねしました。「はい、朝夕、お仏壇にお線香をあげる時、お念仏を称えます」とのご返事。「よかった。よかった」、「じゃあ、今日を境に、お仏壇のないところでも、いつでも、どこでも、お念仏が出る人になってください」と言いましたら、変な顏をされました。「あのね、自動車学校の練習コースでしか運転ができないのは、いつまで経っても仮免許なんですよ。お仏壇の前でないと、阿弥陀様をおがめないというのも仮免許。あのね、あなたが病気になって、救急車が来てくれて、医師会病院に運ばれる時に、ちょっと待ってください。わたしのいのちの緊急事態ですから、お仏壇も乗せていきますと言っても、乗せてはくれないんですよ」、「本当にあなたのいのちと一つになってくださるのは、声にとなえる南無阿弥陀仏の仏様だけ。これをもらわずに死んだら、何十年もお寺に通ったけれど、とうとう仏様をもらわずじまいだったって、真っ暗な心で死ぬんですよ。今日を境に、お仏壇の前だけのお念仏は破ってしまいなさい。あなたの命がもっともっと広くなるんだよ。」と申しました。言葉はしっかり届きました。

 

■蓮如上人は、「一、教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。」

 

一、四月九日に仰せられ候ふ。安心をとりてものをいはばよし。用ないことをばいふまじきなり。一心のところをばよく人にもいへと、空善に御掟なり。とおおせです。『蓮如上人御一代記聞書』 

 

■お寺の法座・法話において、「後生の一大事」、「生死の解決」というもっとも中心の問題がお坊さんから語られない。「後生」は死んで向こうと阿弥陀如来もお浄土も死後の彼方において、今現在のわが身の問題にできない。「出来ないのならば、お浄土がわからない。なんまんだぶつと称えたら救われるというが、それがどういうことなのかわからない」と苦しんだらいいのだけど、宗門大学や中央仏教学園で学んだぐらいで、分かった気になってる。「後生の一大事」という言葉を現代に解凍すれば、どういう問題なのか、考えようとしない。だから、「安心をとりてものをいはばよし。用ないことをばいふまじきなり。」という厳しい場所に立つことができない。楽器に譬えたらば、チューニングされてない弦がゆるみっぱなしのガタガタギターです。

 

■第3章 法話への命題 ・・・・・・ わたしの法話論と言語論の試み でも書きましたけれど、「用ないことをばいふまじきなり。」はとても大事です。開口一番、一発で中心問題にはいれない法話は、ただの時間つぶしです。

 

■第1章で書きましたけれど、20年、30年お寺通いしたけれど、「お念仏申す」というよろこびがわからない」と門徒に言わせてしまう住職は、金だけ巻き上げる詐欺ですね。そんなゆるんだ本願寺に、人も物もお金も近寄らなくなるのは当たり前じゃないですか。

 

 

■第6章

 

 


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