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   大峯顯先生著作出版委員会を発足します。第1回出版は『今日の宗教の可能性』の再版です。

■第4章

 

第3章 法話への命題 ・・・・・・ わたしの法話論と言語論の試み

 

法話について、頭の中でぐるぐる回っている言葉を書き出してみた。わたしは、浄土真宗の教義を学んで、比喩や日常の出来事などを交えながら語れば法話になるとは思っていない。そんな自分自身の考えを整理するために、断片的になるけれど書いてみた。ナンバーを打ったのは、98の命題一つひとつを、ともに話し合えるようにと思ったからである。文章を区切ることで、ご意見、ご批判もいただきやすいと思います。

 

No. 法話への命題98 ・・・・・・ わたしの法話論と言語論の試み
僧侶が語らせていただいている。言葉に成らせていただいている。人生のご苦労人(ご門徒)の御前で、ゆるされて語らせていただいているのである。
何回でも、言葉にさせてもらい、声にして、音にして、言わせていただき、言い直しのチャンスもいただき、自分に届かなかった、言い切れなかった、言い当てられなかったというくやしい経験もさせていただく幸せ。浄土真宗の僧侶以外に、こんな幸せな場を日々もらえる人間はいない。その有り難さを、僧侶は分かっているのだろうか。聴いてくださるご門徒は、僧侶の試金石なのである。
同じテーマで何十回でもトライしチャレンジして、自分に一番響く音・言葉を見つけること。自己の存在の腹底に響かない言葉が、人に届くはずがない。自分という楽器が鳴りきったという経験、鳴らせられなかった経験を重ねること。
ご門徒を前にして、語らせてもらい、その時の一番深い自分の言葉に出会えたか、一番ピュアな自分の音が鳴ったかに、絶えず自分に正直であること。自己点検すること。言い当てられなかった、音が鳴らなかったという正直な経験の繰り返しが、一番じぶんを磨くのである。
自分の法話の第一聴聞者は、自己自身である。聴聞者のうなずきや姿に支え られて思った以上に「語らせてもらえた」という時もあるし、「まったくさんざんだった」 と早々に撤退する時もある。自分に正直に、自分を誤魔化さないこと。
声にして、音に出してみないと、「分かった」と思っていたことが、「実は自分でも分かっていなかったのだ」とはっきり自覚にならない。この純粋感覚を育ててあげることが、布教使や僧侶の養成なのである。この純粋感覚がない人あるいは鈍い人は、聖典の言葉の読み込みも浅い。言葉の感受性が鈍いということは致命的であり、その人は僧侶には不向きなのである。
仏法を語るという営みは、精密な彫刻を彫るようなものである。精密な彫刻を彫るには何十種類もの鑿(ノミ)がいる。その鑿(ノミ)とは語彙力である。微妙に届いてくる言葉をキャッチし、表現するには、「言葉への敬い」、「言葉へのおそれ」、「言葉への純粋感覚」が育たなければならない。
いつでも語れる10分間法話のレパートリーを数多く持つこと。相手を変えて、何度でも練習すること。落語家も講談師もそうやって上達していく。バックヤードの情報量が少ないと、その日の聴聞者の年齢層やさまざまな変化に対応できない。相手の「聴いてみたい」という態度を引き出せない。法話の途中でも聴き手の表情を見て、瞬時にカードを切り換えるのだ。
真打ちの落語家は、すぐに高座で話せる落語が100題、自宅の壁に向かって練習し直して高座に乗せるネタが100題、すくなくとも200題のバックフィールドを持っていると、春風亭正朝さん、入船亭扇遊さん、両師匠から聞いた。これがプロだ。
10 15分の法話でも、60分の法話でも、なるべく早く本題に入る。最初に10秒、20秒沈黙してでもいいから開口一番の言葉を慎重に選ぶことが大切である。どの言葉から語り始めたら、じぶんの一番深い心の琴線に届くのか、最初の言葉にかかっている。世間話レベルのようなぬるい入り方をすると、自分からでたその言葉に引きずられて、言葉の純度が濁ってしまう。ぬるい言葉が似たようなレベルの言葉を連れてくるからご用心。弦のゆるんだチューニングしてない楽器を鳴らすようなものだ。垂直に本題に突入出来ないで終わる。
11 40才の時だった。浄土真宗の「九州保育大会」に大阪から迎えた福祉大学の教授が演壇に立つや、出発する時の伊丹空港の天候と宮崎空港の気温の話から入った。「あっ、こりゃだめだ。20分はつぶれた」とわたしはすぐ思った。その時、わたしは大会の総合ディレクターだった。もう一人の友人スタッフにロビーにコーヒー飲みに行こうと誘った。講師は家族の話をしだした。「また20分つぶれた」。講演開始から40分経過して会場に帰って来ると、焦っている講師がいた。あと20分しかないのに、離陸できないのである。開口一番に本題に入る。これが出来ないと、自分で墓穴を掘る。自滅する。言葉は人間よりも強いのである。
12 法話を語るという営みを分解すると、@「用意したあるテーマを語る」。A「語っている自分の言葉を同時に聴いている」。B「聞法者にどう届いているか、眼、姿勢、うなづきを見ながら全感覚で感じる」。C「聞法者が下を向いてる。腕組みしてる、時計をみる」というのは聞くのが苦痛、面白くない、はやくやめてのサイン。D「その時は、一瞬で話題を変える」。E「無理矢理聞かそうとしない」。F「言わない言葉、法話の深まりやスピード感をそこなう言葉を自制している」。たとえば自己紹介、家族の話、ペットや趣味の話は、自分に面白いのであって、相手は興味がない。そんな話題を持ち出すと本筋からどんどん離れていく。G「語りながら、バックヤードに法話の展開へのいくつもの選択肢(聖典の言葉・例話・比喩・話題・切り口など)を持っていて、いつでも瞬時に切り換えられる」、・・・・が同時進行的に出来ていること、これが「法話を語る」ということである。
13 いかに語るかということは、「何を語らないことにするか」という決心の上にある。「言わない言葉、法話の深まりやスピード感をそこなう言葉を自制することが大事である。たとえば自己紹介、家族の話、ペットや趣味の話は、自分に面白いのであって、相手は興味がない。旅行の報告話も自分に楽しい想い出であっても、聴いている人には自慢話にしか聞こえない。災害ボランティアの話もそうだ。誰でもみんながついてこれるわけではない。独りで生活するのがやっとという老人も眼の前にいるのだ。そんな話題を持ち出すと本筋からどんどん離れていく。法話に心地よいリズムの緊張の糸が張らず、いつまでたっても離陸できない。ダメ路線のどろ沼を自分で作っているのである。連絡事項がある時は、さっさとそれを済ませて、一呼吸の沈黙・間合いを入れて、法話に入る。聴き手もその方が聴きやすい。連絡事項と法話を混同してはならない。会場の空気がゆるみ、言葉が寝そべってしまうからである。
14 法話のとき、門徒に下を向かれる。腕組みをされる。腕時計を見られる。そのときは、「聞くのが苦痛」、「面白くない」、「早く終わってほしい」のサインである。そういう雰囲気を作った僧侶の負けである。この門徒の姿に敏感になれないということは、人間音痴なのである。眼前の聴衆の姿勢、呼吸、表情にもっと敏感に反応しなければ法話は出来ないのである。無理に法話を続けることは、その人たちにとって「お寺はいやな場所」という印象を植え付けてしまう。そんな雰囲気の中でいくら語っても、何にも届かない。早々に法話を打ち切るべきである。
15 法話は、学校の授業のように「事柄」を伝えるという営みではない。仏教の知識・学問・経験をわたすことではない。活きた生の烏賊(イカ)とスルメは違う。仏法も同じである。釈尊は、12縁起を悟ったという仏教学者がいる。わたしに言わせれば「後付けの説明」、「死骸」、「スルメ」である。12縁起の理屈を受けとっても、生死は超えられない。スルメ売りの坊さんが多い。活きた仏を活きいたまま渡す、それが称名念仏である。どんないい話(のつもり)も、家に帰り着いた時は、雲散霧消、皆忘れている。本願寺が死にかかっているのは、「活きた烏賊」を渡さず、「スルメ」を見せて、これが烏賊ですという法話をするからである。
16 僧侶養成の「法話実技トレーニング」において、「起・承・転・結」のメモ、下書き、法話原稿を作らせて、皆の前で発表の実演をさせる・・・・という実技訓練だけでは、布教使の教育養成はできない。指導者側の方法論のおお間違いである。何故、間違いに気がつかないのか、集団で考えているからである。本当のことを考えるよりも、仲間うちの顔色を見るのに忙しい集団依存病。
17 布教使養成は、法話原稿の作成と法話実演という方法論だけでは、うわべの学習で終わる。人間を前に語る以上、人間とは何か、「人間論」、「人間関係論」を学ばねばならない。法話は、言葉でしか語れない以上、「言葉とは何か」という「言語論」の学びがなくてはならない。そして、ご門徒の悩み苦しみをそのまま丁寧に傾聴するというカウンセリング実技訓練が不可欠である。法話の前の夜に、法話のメモ書き(レジュメ)を作って語れば法話になると思っているのは、大間違いのウスッペラ。
18 浄土真宗の特徴は、@「本願他力」、A「悪人正機」、B「往生浄土」だと習って、それを話せば法話になると思っている坊さんがいる。多い。それを語る前に、自分自身にとって、「生きるにも死ぬにも、それがどうしても自分に必要だ」、と言うことに成っているのか、自分の今と一つに成っているのかと自問自答しなければならない。そうじゃない法話は、ただ単に習ったことの「説明」でしかない。それは響かない。退屈な学校の授業と同じである。ご門徒はそんなカタログ法話を求めてはいない。
19 では、ご門徒は何を求めているのか。仏教の知識でもなければ、お経の説明でもない。生きて死ねる自分自身にうなづきたいのだ。じぶんの存在全体、全生涯を認め大肯定したいのだ。ここを外したら、ぜんぶ他人事。前のめりになって聴いてはくれない。
20 ご門徒を前にしてする法話のときだけ「仏法」が口から出る坊さんが多い。日常会話で仏法がでない者が仏法を語るからウソっぽくなる。メモや聖教を広げないと仏法が語れない人は、瞬時で変わる聴聞者の呼吸や表情を見ていない。だらだらと自分だけの長話をするがやっとで何も届いていない。法話という形態をとってはいるけど、仏法は問答なのである。メモを見る暇はない。そんなことは人の見ていない時に、日常的に読み、書き、調べ、語っていなければならない。日常に仏法を語らない僧侶の仏法は、地層が浅い。だから、法話にリズムがなく、自由自在のスピードの切り替えができない。一本調子になる。聴衆に「この坊さんは何が言いたいんだろう」と考えさせたら、もうだめ、負け。説き手と聴き手の心の距離がどんどん開く。
21 法話のレベルは、その僧侶の日常の読書のレベルで決まる。鈴木大拙、西田幾多郎、清澤満之、曽我量深、禅語録、難解な本の読書から逃げては、一生、浄土真宗も親鸞聖人も宗教哲学もわからない。アヒルのようにバシャバシャと仏教の水面をかき分けて分かったつもりで、人生が終わる。
22 大峯顯先生の法話や講義を何十回聴いても、聴いた途端、じぶんの貧しいボキャブラリィに翻訳しているのである。聴いても聴いても、ガラス越しに窓の外の風景を見るようなものである。大峯顯に会いたかったら、彼の渾身の論文を体当たりして何回も読むしかない。そうしてから聴けば、彼の直球がドスンと当たる。読むというトレーニング、書くというトレーニングは年をとったら出来ない。あとは「分かったふり」の誤魔化しで終わる。自分は自分を誤魔化したつもりでも、門徒からはちゃんと見破られているのだから怖い。
23 いったい自分は、どんなレベルのお坊さんで一生を終わりたいと思うのか。自分への理想を持たない限り、成長への道はない。
24 「眼の高さまで手は伸びる」という言葉がある。学問でも芸術でも、今は自分には出来ないいけれど、きっといつの日か我がものにして実現したいというイデア(形なき本質)を見ることを、「眼の高さ」というのである。努力の結果、それが形ある実現へと変わる。それが「手は伸びる」ということである。
25 もっとも大事な法話のトレーニングは、自分の法話を録音して、何度も聴き直すことである。自分の話し癖がわかる。本願寺の布教使養成課程において、この指導がなされていない。ある僧侶に、「自分の法話を録音して聴き直してみなさい」と言ったら、「自分の法話・声を聴き直すのは気持ちが悪いですよ」と答えた。「あなたは、自分でも気持ちが悪い法話を門徒に聴かせているのですか」とわたしは言った。最初は恥ずかしいかもしれない。だが、そこを超えなければ壁は破れない。ド素人のままで一生を終わるしかない。
26 わたしは、ICレコーダーで録音したデータを「Sound it! 8 Premium」という音楽編集ソフトで読み込んで、編集した法話をamidanetにアップしている。聴き直すと、言わなくてもよい無駄な言葉、「せきばらい」、「あのね、それでね、だからね」という語り癖、いろんな自分の欠点に気づかされる。その音を切り取る。たんねんにそぎ落とす。次に話すときはせめてこんなレベルで話したいと思う。ときには30分の法話が20分以下に編集し直されることもある。自分の教師は自分である。アミダネットの実演法話は、自分への修行なのである。人と同じことをしていては、どんぐりの背比べから抜け出せない。人のしない努力をすすんでやらねば、人生の時間の無駄づかいだ。誰もしない努力だからこそ、そこには成功へのチャンスがある。
27 全国を回っている布教使でも、「自分の法話を必ず録音して聴き直す人」は皆無だろう。本願寺派ではそういう基本的な教育がなされていない。それがプロ布教使だと言うのだから、そもそもレベルが低いのである。わたしは、よそのお寺に布教の仕事をいただいたら、必ず録音する。自分が大事に思っている講題を、そのお寺でどのくらいの純度で語れるか、修行の場だと思うからである。
28 教えられているのは、まったく自分自身であるという経験、その謙虚さを失ったら、僧侶は、ただ単に「真宗教義」という鎧で身をかためたブリキの人形でしかない。「真宗教義」さえも学ばないのならば、ただの商売人だ。
29 なぜ法話が深まらないのか。語り手の人間そのものが深まっていないからである。安物の楽器からは、安物の音しか鳴らない。
30 若い頃、飯塚市明光寺様に春彼岸会(3日間)の法話に呼ばれて行く車の運転中に、必ず小林秀雄の「山の人生」、「信じることと知ること」、「考えるヒント」などの講演テープを聴きながら行った。小林秀雄の語り口は、無駄がない。話から話への移り際が速い。「あのね、だからね、次にね」などと言う、接続言葉が見事にそぎ落とされているのである。見事な講演を何十回聴いたことだろう。
31 小林秀雄は、落語家・名人・林家正蔵の語りを学んだという話を聴いた。やっぱりそうか。名人の落語家は、高座で羽織を脱いだら、一瞬で江戸の下町長屋にワープする。その移り際がきれいだ。
32 人の言葉をそのまま聴くという訓練、人の言葉の底に流れている心情を聴き取る訓練が大切である。言葉を語る力は、言葉を聴く力に支えられている。
33 僧侶になる人、坊守になる人はカウンセリングの実習経験が絶対に必要である。そして、自分が相談者側の立場になって、あらいざらい聞いていただいたという経験を何度もすべきである。相談者は、語り始めたときは、自分の心配ごとや心情がどのへんにあるのか曖昧であることが多い。よい聴き手をえて、自分の一番中心の心情を語れた、聴いてもらえたという経験が、宗教を深く語るという行為を支えているのである。言葉への感性を高めるのである。
34 とことん聴いてもらえたといううれしさを自分が体験することが、ご門徒と接する態度を育てるのである。わたしは門徒の相談事を聴かせてもらうときは、「まあ、お座りください」とすすめる。立ち話では聴かない。話が深まらないからである。
35 その人は「その人に聞こえた言葉」を聴いているのであって、僧侶が語ったとおりの言葉を聴いているわけではない。「聴かれた言葉」が、その人の今の心の琴線を鳴らすのである。
36 「僧侶が語ったとおりの言葉を聴いているわけではない」というわたしの見解を、「違う、ウソだ」と思うならば、あなたが、眼の前で門徒が10分語られた言葉を、その方の前で、一字一句その通り再現(フィードバック)してみてください。できないことがわかるはずだ。これにはカウンセリングワークショップでおこなう訓練が必要なのだ。
37 「語られた言葉」と「聴かれた言葉」は違う。どうしてもズレるのである。だから、『蓮如上人御一代記聞書』には、「蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ」とある。100人おれば100通りの聴き方で聴いている。
38 蓮如上人は、「話し合い法座」をすすめられた。人間は100パーセント聞き間違うのだ。自分に聞こえたことを言ってみて、もう一度、話した人に確認して、言葉を丁寧に聴く場を作らないと、めいめい自分勝手に聴いて帰る。
39 宗教という人生で一番純粋で、深く、生死を超える教えは、聴聞者その人が真剣に求め、その人の心が鳴らないかぎり教え込めるものではない。
40 法話というの営みは、「語り手の心の弦」と「聴き手の心の弦」が共鳴することである。
41 法話が「言葉」である以上は、「言葉とは何か」の深い学びがなければならない。
42 人間が語るのではない。言葉が語るのである。マルティン・ハイデガー 『言葉への途上』
43 人間は、「言葉が語る言葉」に聴き従っている。マルティン・ハイデガー 『ヒューマニズムについて』
44 人間が言葉を所有しているのではない。言葉が人間を所有しているのである。詩人 大岡信
45 言葉がない世界では、わたしがわたしに成ることはできない。「語る、聴く、考える、覚える、思い出す、書く、読む」、言葉の営みを離れては、自己自身を知ることも出来ない。
46 山も川も草も木も、名前がないときには「その存在」はない。言葉が「存在」を存在させているのである。
47 浄土教の出現を、修行のできない在家信者のために、釈迦に替わって阿弥陀如来を創出したという学説を立てる仏教学者がいるけれど、それは修行仏教=仏教主流とする観点からの浅薄な学説である。思索が徹底していない。その方程式からは、阿弥陀如来(絶対無限の真生命)はどうしても名号(言葉)に成るしかなかったという唯一無二の結論は導きだせない。そんな学説は、『大無量寿経』の根源の鉱脈に触れていないのである。
48 浄土教の出現は、「存在とは何か」という問いから始まったのである。他の大乗菩薩道仏教の問いの出発点とはまったく次元がちがう。言葉のない世界には仏も神も自己も世界もない。人間は言葉の海に産まれて来た魚である。言葉という存在形式からは一瞬も出られないのが、われらの生老病死である。だから、絶対無限の真生命は、名号(言葉)という存在形式で自己を顕現したのである。みずから名号(言葉)となって衆生に名告りでたのである。
49 浄土教を、他の大乗菩薩道仏教(法華経や華厳経など)と同じジャンルのように扱ってはならない。単に、「自力聖道門」と「他力浄土門」という水平対置では、浄土教出現の根源に触れることは出来ない。
50 真宗教学は、「自分の頭で一切の前提を一度捨て去って、解体分解しきって、ぜんぶを自分で考える」という学問には成っていない。集団依存、伝統教学の慣習化された説明依存、だから言葉が響かない。わたしはこれを3人称教学と名付けている。説明すれば信心がわたせるという浅はかな思い込みを一度も反省したことがない。
51 借り物の学説、借り物のネタ話でいくら語っても、聴衆の魂のどん底には響かないのである。
52 浄土真宗の学者や僧侶でさえも、未だに修行仏教=本宗、浄土教=寓宗とする劣等感から抜け出せないでいる。海はもとからみずからの全生命を一匹の魚に与えている。魚のいのちの外にも、魚のいのちの中にも海がある。では、修行をしたら魚は海になれるのか、なれないことは馬鹿でも分かることである。魚が海に成りきる道は一つ、ただそのまま死ねばよい。
53 魚は一度も濡れたことがない。一度も海と出会ったことがない。絶対無限の真生命と個我の生命は、対面的に出会うことはない。
54 西田幾多郎(哲学者)は最後の論文『場所的自覚と宗教的世界観』(74才)の中で、生死する相対有限の自己(魚)と 絶対無限の永遠の自己(真生命・海)との関係を、好んで大燈国師(臨済禅)の言葉で表現している。「億劫あいわかれて、須臾も離れず。尽日あい対して、刹那も対せず」と。
55 「永遠に対面できないもの同士が一瞬も離れてはいない。いつも海(絶対無限)の中に居ながら、一瞬も海(絶対無限)と対面したことがない」と。
56 自己と如来、魚と海は、主体(自己)と客体(如来)という対象的2元論的出会いは不可能なのである。
57 真宗教学が、「自己と如来」、「現世と浄土」、「煩悩とさとり」、「人生と死後」、この2元論を打破しないかぎり、仏法の表現は手詰まりなのである。聴いても聞いても退屈なウソ。だが教団にそれを期待するのはもう無理。自分独りでやるしかないのだ。
58 浄土教は言葉の宗教である。言葉の原初の姿は、「聴く・聴かされる」ことである。だから、『大無量寿経』(上下巻)において、48願文中に「聞我名字」は11回出てくる。「聞我名号」、「聞其名号」、「聞彼仏名号」と出てくる。「聞名」が「称名」になるのである。
59 これは名号だけの問題ではない。「言葉がない世界では、わたしがわたしに成ることはできない。「語る、聴く、考える、覚える、思い出す、書く、読む」という一連の言葉の営みは、「わたしに届いてくる言葉」をわたしが聴聞するという基礎に裏付けられている。
60 自分に届いてくる言葉に敏感であること。
61 教えられているのは、まったく自分自身であるという経験、その謙虚さを失ったら、僧侶は、ただ単に「真宗教義」という鎧で身をかためたブリキの人形でしかない。「真宗教義」さえも学ばないのならば、ただの商売人だ。
62 宗教は、突き詰めれば「色もなく形もなく、言葉も絶えた世界」である。
63 阿弥陀如来といっても、浄土といっても、超時間・超空間の絶対無限のことである。
64 人生で一番長い時間は、独りでいる時間である。独りで自分と語っている時間である。
65 どこまで逃げても、自己は追いかけてくる。不安・孤独・空虚・退屈・無意味という人間存在の足元の薄氷からは逃れられない。
66 法話は、その人が家に帰って独りになったとき、その人が聴かれた仏法がその独りの中でライブするかどうかの問題である。
67 わたしは、自分の法話を覚えて帰って欲しいと思ったことは一度もない。どんな「いい話」も、その方の人生のギリギリでは何の力にもならないことを知っているからだ。
68 いったい本願寺派の僧侶・布教使は何の目的で法話を語っているのだろうか。聴衆が自分の法話を感動しておぼえてくれるとでも思っているのだろうか。そんなことはありはしない。ほとんど全部忘れるのである。お持ち帰りは、「称名念仏のみ」、これが浄土真宗の法話である。あとは、その人の中で阿弥陀如来の一人働き、それを邪魔しないのが坊さんの仕事である。称名念仏の渡し切り。人間信頼である。
69 本堂を出て靴をはいた瞬間ぜんぶ忘れて帰る、あとは称名念仏のみ。これが一番いい聴聞である。
70 わが師大峯顯(宗教哲学者)の生涯の問いは、「なぜ名が救いか」、「なぜ阿弥陀如来は南無阿弥陀仏の名号(言葉)に成られたのか」。「なぜ他の何ものにも成られなかったのか」という「言語論」、「名号論」でした。
71 鈴木大拙は、『浄土系思想論』(72才)の中で、「名号は実に浄土教体系の一大礎石である。それ故、名号の何であるかを会得することは、浄土教を会得することであると云ってよい。実際は、本願の主人公で、浄土全系を支へてゐる阿弥陀佛そのものも、その名号に尽きると認められ能ふのである。阿弥陀佛はその名号と同一体である。」と看破している。
72 ところが、布教使も僧侶も、名号が語れないのである。自分の言葉で語れない。わたしはリンゴの皮剥き法話と呼んでいる。美味しいリンゴは食べさせてあげればいいのであって、皮を剥いて見せることではない。60分法話しても、ずーっと皮を剥いている。中心に入っていかない。つまり、仏法が自分のものに成っていないのがバレバレ。
73 阿弥陀如来の名号が、『大無量寿経』(上下巻)の一貫したセンターラインであり、背骨である。名号を語れない法話は、骨抜きクラゲ、偽物、ペテンである。
74 独生独死独去独来の人間存在の深き闇を救うものは、称名念仏しかない。その人の今全体に届いた称名念仏である。
75 浄土真宗には「安心論題」という教義解釈のルールがある。それは教団が自己防衛のために作ったルールである。だが、『大無量寿経』の阿弥陀如来は、ルールを理解し逸脱しないように「念仏申せ」とは言っていない。「なもあみだぶつ」の念仏は、その人の中で、その人の今に溶ける。ルールや条件を聴いて覚えることが聞法ではない。とにかく、独りのときに念仏申してみるのである。
76 ルールや条件づくめの教義教学には、おおらかな人間信頼がない。門徒や一般僧侶への人間信頼がない教団が発展するわけがない。「いい商品を作れば、必ずお客さんがよろこんでくれる」というのも企業の人間信頼である。
77 「わが名を称えよ。われ自身をいますべて与えよう」というのが、阿弥陀如来の究極の人間信頼である。絶対無限者が凡夫の胸に自己を投げだしているのである。
78 マルティン・ハイデガーは、「言葉は存在の家である」『ヒューマニズムについて』と言っている。神でさえも、言葉のない世界には自己を顕現することはできない。「われらが南無阿弥陀仏の言葉の永遠の家に住む」ことを、現生正定聚とも、現生正定聚とも正定聚不退転ともいうのである。
79 どんな知識も学問も教学も、人間を救わない。思慮、分別、疑い(疑情)、邪見、驕慢、この自我を破るものは、自分にはない。ただ念仏のみが凡夫の疑いの闇を破るのである。
80 わたしは子供の頃から、お坊さんという人種が持っている大衆蔑視の人間観、根拠のない優越感を感じていた。「門徒にはむずかしい話をしても分からないのだから、中学生にわかる位の話がいいのだ」という言葉を直接何度も聴いたことがある。それは根本的に間違った人間観である。布教使も学校の教師もそうだが、一度作った授業のノートを何年も使い回す者がいる。一年たてばまた生徒は替わるのだから、同じノートで充分という姿勢である。この貧しい人間観が、結局自分の成長をはばむことになる。
81 布教使も僧侶も、5年に一度は、ため込んだネタ話、知識材料の在庫一掃、ぜんぶ捨てる、ぜんぶ脱皮するという自己破壊をする方がいい。わたしはそれを実行してきた。わたしは、わが師大峯顯と霧島市旅行人山荘で、第一回宗教哲学講座を開く半年前、決戦前夜、軽トラック5台分の本を捨てた。訣別である。もうこのレベルに帰ることはしないと、背水の陣を敷いた。そして、大峯顯の著書を全部買って読んだ。市販されていない法政大学出版の日本フィヒテ学会の研究誌の大峯原稿も読んだ。アンテナをピュアにしなければ、この哲学者の言葉はキャッチ出来ないと思ったからだ。
82 知識材料を捨てることを怖がってはいけない。自己脱皮して、自分が一段高い新しい地平に立つとき、捨てたはずの知識材料も必ず新しい深まり(読み込み)となって蘇生するのである。
83 そもそも現代では、教養、学力、読書、日々の情報量において、僧侶よりも一般の社会人の方が上回っていることが多い。わたしがよく行くランチ喫茶のご主人も、ここで出会う人々も読書量がすごい。1週間に何冊も読んでいる。会話のはしばしにチラッと感じるのである。それに比較して僧侶の読書はとても貧しい。口から出てくる言葉を10分も聴いておれば、その人がどんなたぐいの本を読んでいるかすぐに分かる。すぐに法話に使える新聞コラムやネタ本は読むが、哲学書や科学書は読まない。法話をだれの前でも堂々と語れるベーシックな思索が日々なされていない。そんな坊さんからは陳腐な音しかでない。
84 「むずかしい話をしても門徒は分からないのだから」と言う僧侶がいる。彼ら僧侶の言う時の「むずかしい話」とは真宗教義を仏教専門語で語りまくるような法話を意味しているようなのだ。だが「むずかしい」と言っても、色々あるのだ。歌手ミーシャさんのように歌えと言われたら確かに難しい。しかし、ミーシャさんの歌声の美しさが心に響く、感じることは少しも難しくない。一流レストランのシェフのように料理を作れと言われたら、それは難しい。しかし、たった一回食べただけでも美味しいと感動することは料理の素人でもできる。法話も同じである。
85 ご門徒や市民を軽く見てはいけない。わたしは正定寺の門徒会長から『現代農業』という月刊誌を借りて読んでいる。米農家、ピーマン農家、果樹農家、それぞれにものすごい研究をされている。このぐらい必死に研究されているお坊さんをわたしは見たことがない。
86 本物のコーヒー店、本物のラーメン店を市民はみな知っている。現代でも、人間が生きている以上、潜在的には人間は本物の味を求めている。それに応える努力をしないでいて、「門徒には難しいことを言っても分からない」などと腑抜けなことを言っている坊主は、自分の頭を疑った方がいい。自分の頭が緊張感のない豆腐みたいなふやけた「仏教言葉」で出来上がっているのである。自分の思考が難解な仏法をどう解凍しようかという不断の努力から逃げまくっているのである。坊主の言い訳、逃げ口上でしかない。
87 どんな職業であっても、大衆蔑視の考えは、何よりも自分をダメにする。向上心を持たなくなる。そのくせ、門徒への媚びへつらいでその場を誤魔化せると思っている。だが、にせ物は直感的に見抜かれるのである。
88 事業主の一番大事な仕事は、自社が提供する商品の品質管理である。永年かけて編み出したわが社の商品の品質レベル、これ以下の粗悪商品をわが社の名前で絶対に出してはならないという社員教育である。寿司屋にだって、うどん屋にだって、歴史をかけて修行してきた「おたなの味」がある。そのレベルまで登ろうと修行しない弟子にのれん分けはできない。店の恥になるからである。
89 住職(事業主)の仕事も、わが寺が提供する法話の品質管理である。それができない、そのことを考えたこともない住職は、はやく職を去るべきだ。法務員が何人もいるが、めいめい好き勝手な法話、バラバラの水準で法話をさせて放っている住職は、門徒に対する責任を果たしていない。
90 わが寺の法話は、何を一番つたえるのかを懸命に考えること。それは「世間虚仮 唯仏是真」(聖徳太子)、「、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(親鸞聖人)しかない。
91 ミーシャさんはファンに向かって、自分と同じボイストレーニングを要求したりはしない。シェフはお客に厨房に立てとは求めない。それと同じで、難しい専門的学問・自己鍛錬はだれもいないところで自分ですればいいのである。難しいところを、どう美味しくするか、聴衆が知らず知らず引き込まれるように語れるかは、僧侶の問題なのだ。初めてお寺に参ったという人であっても、響く言葉は響くのである。
92 わたしは法話において、仏法を聴くのに学問はいらないとよく言う。あなたが歩いて来られた人生のご苦労、喜怒哀楽、出会いと別れ、その全てを「耳」にして聴けば必ず分かる。特別な人にしか分からないという教えは、教えそのものが人類普遍の真理ではないのである。
93 問題は、僧侶と聴聞者が「すっぴん」、「心と心のすっぴん」になって向き合えているかということである。涼風と風鈴がリンリンと鳴り合うかということである。
94 「後生の一大事」、「生死いずる道」という言葉を、現代ではどう解凍したらいいのか? 僧侶は現代と向き合い、門徒と向き合い、日常的に絶えず自問自答しなければならない。それをしないならば、僧侶に成った意味など何もないのである。
95 人間は、社会内存在としては個人である。だがこの世のどこにも「われ独りの存在全体」、「生死全体」を「そのままでよし」と大肯定して受けとめてもらう場所はない。職場も病院もどんな場所も、夫婦であろうが、親子であろうが、個人と個人が、部分と部分を見せ合って出会っているに過ぎない。仏法は、自己といういのちの全体性(whole)の解決である。
96 「なもあみだぶつ」の称名念仏は、「わたし」がわたし全体に成れる、宇宙で唯一の絶対肯定の場所である。その場所が見つかったことを安心(あんじん)と言う。信心決定である。
97 法然上人は43才、善導大師の言葉に出会われて、「一生参学ここに畢(おわ)れり」と晴れ晴れと比叡の山を降りられた。ご門徒に「一生参学ここに畢れり」と言わしめるような法話を、わたしは自分に求めたい。
98 現代人は、服飾センスも、味覚も、音楽嗜好も、読書も、情報収集も、ありとあらゆる面で洗練されている。それに追いついていけないのがお坊さんの法話なのだ。法話は「何を語るか」だけではダメなのだ。何か用意したテーマやメモをつなぎつなぎやっとかっと語るというぬるい法話は、自己鍛錬が出来ていない証拠である。法話というの営みは、「語り手の心の弦」と「聴き手の心の弦」が共鳴することである。僧侶が涼風となって、聴聞者の心の風鈴を鳴らすことだ。人間存在の不安・孤独・空虚・退屈・無意味のむなしい隙間をみな持っている。その空隙にそっと触れて、「あっ、仏法はわたしのことだ」と風鈴の玉が鳴る。わたしは、その瞬間がわかる。音と音とが共鳴して響き合っているのがわかる。そのとき、もっと深い言葉がおのずと口から飛び出している。法話は、仏法問答、対話なのである。

 

 

■第4章

 

 


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