■第3章

 

第2章 本願寺派という「言葉の管理社会」

 

わたしは龍谷大学教授:信楽峻麿先生に拾っていただいて、某国立大学を退学し龍谷大学の聴講生となった。京都在住の2年間、その間に「信楽教授異安心問題」が宗会で紛糾し、先生は追われてアメリカのバークレイ大学に飛ばされた。アメリカに追われることになった春、「尼子君、君はどうするかね」と聞かれたので、「先生のおられない京都にはもう用はありません。田舎に帰ります」と答えた。「国立大学からだったら龍大転入もできるよ」とお手紙をいただいたが、わたしは龍谷大学に行くのではなく、信楽峻麿先生を慕って「信楽研究室」に入門したのである。京都に行った最初の春、第1日目に研究室の合鍵をくださった。「この部屋のどの本でも自由に読んでいいからね」と言ってくださった。学部ゼミ、大学院ゼミ、博士課程ゼミ、すべてフリーパスだった。御恩は死んでも忘れない。
龍谷大学の2年間でわたしが直感したのは、この本願寺教団という社会は、「言葉の管理社会」であるということだった。「阿弥陀如来」、「極楽浄土」、さまざまに浄土真宗教義を組み立てている言葉があるが、それらはどう説明したらセーフで、自分自身の表現で逸脱したらアウトであるという「言葉の管理」が学問の実態なのである。問題はそんなところにはない。「わたし自身が生きて死ぬのには宗教は必要か、無用か」、自分自身の答えを探すのが学問であるはずが、「自分自身」より前に、伝統教学というカタログがあるのである。カタログを丸飲み込みするのが、大学の勉強であるならば、田舎のお寺に帰って、門徒にその知識を語ったところで響くはずがない。浄土真宗の3大特徴は、「本願他力」、「往生浄土」、「悪人正機」だと言う。これを説明すれば法話になると思っている。「法話とは、教義の説明である」という頑なな思い込みは、もはや無自覚・無反省である。2年間の龍谷大学時代で思い知ったのは、「ここは言葉の管理社会なのだ」ということと、「説明信仰」ということだった。「説明」という仕方で宗教的真髄は伝えられるという「思い込み」である。ということは、宗教的信心に先立って、「説明という仕方」が信仰されているのである。後日、曽我量深師がこの事態を、「概念の偶像崇拝」と書いている著書を読んで、「全くそうだ」と合点した。色もなく形もなく言葉もたえた絶対無限の阿弥陀如来を「説明」という仕方で言い現そうという「迷信」なのである。だから、わたしは京都生活は2年でもう充分だと悟った。この学び方に染まれば染まるほど、自分自身の魂を失うからである。わたしは非行少年に近い感覚で、その場を去った。

 

まず、自らの信を確立せよ。僧侶その者が本当に宗教が必要なのか。

 

『蓮如上人御一代記聞書』の中で、蓮如上人はこうおおせである。

 

一、教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。

 

一、四月九日に仰せられ候ふ。安心をとりてものをいはばよし。用ないことをばいふまじきなり。一心のところをばよく人にもいへと、空善に御掟なり。

 

一、信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。

 

つまり、大根を持っていない人が、「あなたに大根をあげよう。大根は美味しいよ」と言うようなものである。そんな言葉は、世間を必死で生き抜いてきた苦労人にはピンポン球よりも軽く、浅薄に聞こえる。法話者は硬球野球ボールでストレートを投げ込んだつもりだが、聴聞者のグローブに届いた球はピンポン球だったという場面は、嫌というほど目撃してきた。もっと言うならば、法話者自分自身の腹底に響かない言葉は、誰の胸にも響いてはいないのである。法話する者は、まず第一に自分の心底の音、言葉の聴聞者でなければならない。自分自身の誤魔化しない真実味の音・言葉を探して探して、妥協できない人でなければ、人に仏法を伝えることなど出来ない。『歎異抄』でも『臨済録』でも『正法眼蔵随聞記』でも真剣に読むならば、一句もうそ誤魔化しを許さない緊迫が走っている。この空気感のない者が、ベタベタに寝そべった「説明ことば」で仏法を語ったところで、時間の無駄、ニセ芝居にしかならない。

 

■第3章

 



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