『仏説無量寿経』の根本問題:
浄土教の歴史は、『仏説無量寿経 巻上・巻下』 曹魏天竺三蔵康僧鎧訳)をどう読むのかという歴史です。その伝統の歴史は、龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空の七高僧を経て親鸞聖人で終わったわけではありません。宗教がいま現在の時代を生きる一切衆生を救済する教えである以上、いつの時代も根本経典に立ち返らねばならないのです。未来への最先端においては、時代を生きる自己と人類の現在病巣を見つめ、最深底においては「なぜ浄土教は出現したのか。出現せねばならなかったのか。浄土教は、宗派を超えて世界宗教たり得るか?」という問いを、根本経典に問い続けねばならないと、わたしは思います。
Windows Android WMA 法話のテーマ | 分 | MAC MP3 |
第1話 内省する永遠・法蔵菩薩 神は自己を内省しない | 42 | 第1話 |
第2話 内省する永遠 現代人の地獄は孤独・不安・退屈・空虚・無意味 | 58 | 第2話 |
第3話 大乗経典は親から子へ口から耳へ ソナム師と向坊師のであい | 58 | 第3話 |
MAC iPad iPhone は MP3音声で再生してください。
2018年1月24日〜25日、鹿児島県日置市吹上町 常楽寺様報恩講(斉藤格御住職)で、浄土仏教の根本聖典である『仏説無量寿経』の法話をさせていただきました。
■「内省する永遠」では、キリスト教、仏教をとおして神も仏もおられるけれども、「わたしは仏様になる資格があるか、仏自らが内省し悩み苦しんでくださったのは、法蔵菩薩(阿弥陀如来)だけである」という浄土仏教の特徴を話しました。
■「大乗経典は親から子へ 口から耳へ」では、文字化された経典成立(紀元後1世紀)よりもはるか以前に、阿弥陀如来の名号の救いは、お釈迦様じきじきに口伝暗誦されていたことを話しました。文献主義、実証主義の仏教学の限界を指摘し、自己救済教としての経典への学びは方法がちがうという主張です。経典(研究対象文献)の問題ではなく、研究者(聴聞者)みずからが、どのような方法論を持って臨んでいるかという主体側のあり方を忘れては、空理空論に堕ちてしまうのです。
■ 浄土教はなぜ出現したのか? 出現せねばならなかったのか?
炎暑の毎日で、室内避難の生活です。日頃からもやもやと考えていること、どこまで書けるか、適切な文献史料を提供できるかどうか分からないけど、その作業は涼しくなってから書庫など籠もることにして、ともかくフリーハンドで書き始めてみます。
【1】「大乗非仏説」という主張があります。ここで言う「仏」とは、今から約2500年前、4月8日に北インドのルンビニーで生まれ、2月15日にクシナガールで80才で入滅されたブッダ(お釈迦様=ゴータマ・シッダールタ)のことです。「非仏説」とは、そのブッダが肉声で語った教えではないということ。ブッダの直接の教法は、原始仏教(根本仏教・小乗仏教)である。ブッダ入滅後、迦葉尊者・阿難尊者ら出家の仏弟子が、ブッダ口伝の教法を整理し,その教法を確立するために開かれた経典編纂会議を「結集・けつじゅう」と言いますが、有能な弟子五百人による第1回結集以来,アショーカ王の結集,カニシカ王の結集など4回行われ,三蔵(経・律・論)の成立をみたとされています。その後約五百年間、連綿と編纂されていく大乗仏教は、後世の仏教者の創作仏教だという主張です。
わたしたちの浄土教の根本経典である『仏説無量寿経 巻上・巻下』もお釈迦様が説いておられる経典ですが、成立年代や内容が、根本仏教と一致しないという批判なのです。
わたしはこの「大乗非仏説」といいう批判に無理に抵抗する必要もなく、『仏説無量寿経』の「仏説」は確かにゴータマ・シッダールタ・ブッダの肉声ではないと認めてもなんらかまわないと思っています。
原始仏教は、お釈迦様が入滅されてから約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教をいいます。『スッタニパータ』、『法句経』、『テーラガータ』、『テーリーガータ』、『阿含経』、南伝 『大般涅槃経』などの経典がありますが、原始仏教経典と言えども文字化されて伝承されるようになるのはかなり後世のことであり、それまでは口伝の伝承でした。お釈迦様の言葉を木簡や竹簡などに文字化することは、お釈迦様のお姿を仏像にすることと共に禁じられていました。
「大乗非仏説」、一つの学説が誕生するときには、必ずその根底に、その学説の元となる方法論があります。「大乗非仏説」の根拠となる方法論は、近代的な歴史学であり考古学です。そしてゴータマ・シッダールタ・ブッダの生涯や肉声を伝えている原始仏教経典です。そこには、阿弥陀如来は登場していないのです。
阿弥陀如来の衆生救済を説く浄土教が段階的に整理統合されて『仏説無量寿経 巻上・巻下』(康僧鎧訳)に至るには、釈迦入滅後数百年を経ているのです。
では、時代を超え、人種・言語・国家も超え、出家者・在家者の差別も超えて、この世にいのちある一切の生命(一切衆生)の救済を説く大乗仏教は、仏教創作文学なのでしょうか。わたしたち浄土教の立場からも誠実に、しかも根本的にこの問い(批判)に向き合い答えていかねばならないと思います。2020/08/20〜01 gensho