救われるということ 【連載】

■ 「語られた人の言葉 聞かれた人の言葉」

 

■no.2  聞かれた人の言葉  2021/01/27 では、そのような「語られた人の言葉」は、字面としては「一字一句そのまま」、意味内容としては「語った人の意味のまま」、、「情感やニュアンスまでそのまま」に伝わるでしょうか。「語られた人の言葉」は、イコール、「聞かれた人の言葉」に成るかと言えば、まず100%違います。このことは体験的には、カウンセリングワークショップ(たとえば3泊4日)で一日中実地にトレーニングしてみても、わずか1分にも満たない「語られた人の言葉」を、最低限に字面どおりに聴けている人はほぼいません。30人のワークでも、熟練したカウンセラー2〜3名でしょうか。あとの人は、聴いていく最中の傍らから、もう、「自分の経験」、「自分の解釈」、「自分の評価・判断」が脳内を渦巻いています。つまり、「人の語られた言葉を聴く」と言いながら、内実は、その最中にも「自分から湧き出る言葉」を聞いて(聴いて)いるのです。この時に、「自分から湧き出てくる言葉」をいったん遮断するには、特別な訓練が必要です。(カウンセリングの場合です)
カウンセリングの臨床場面では、来談者がみずからを語り、みずから語られた言葉にその方の気づきが生まれるよう、傾聴者はひたすら、そのままを正確に聴くことが求められます。語られた事柄が、「子供の不登校の問題」(例)であっても、子供や学校のこと(事柄)を聴き、指示や評価や意見を述べるのでなく、「語りに来られたその人」(特にその人の心情)を聴かせていただくのです。(本稿ではカウンセリングについてはここまでとします。)

 

■ 法話の場合に戻ります。法話の場面では、いつも「語られた人の言葉」は、字面としては「一字一句そのまま」、意味内容としては「語った人の意味のまま」、、「情感やニュアンスまでそのまま」に聞かなくてはいけないのでしょうか。そうではありません。まず不可能です。「no.1 語られた人の言葉」で言いましたように、人間は生来、自分に向かって語り続けている存在です。自分の言葉からは一瞬も離れられない存在です。だから、「人間信頼」というならば、「その人は、その人のように、その人の今のように、この言葉を聞くであろう」と言うことを全く信受し、愛するしかありません。愛おしいことです。「語られた言葉」が、「真逆の言葉」に聞かれることもある人間場面は、そういうことも起こりうる人間を認めることが、人間信頼です。

 

■ そもそも法話は、真宗教学の説明ではありません。教学は、不可称・不可説・不可思議の阿弥陀如来の救済が、かならずわたし(聞法者)に届く、すでに届いているという宗教経験の事実を知性上の言葉で分析・解釈した結果の産物です。説明しようのない不可思議を時間的に前(現世)と後(死後)をたて、空間的に娑婆世界(現実生活・此岸)と西方十万億仏土(浄土・彼岸)をたてて、自己の生命の向こう側に二元論の対象論理として描いた抽象画です。人間の宿命(限界)として、「ものを知る」ということは、「見る者」と「見られるもの」、「知る者」と「知られるもの」=「主体と客体」の対象的二元論でアプローチするしかないのです。科学は、この方法論で動いています。しかし、宗教の場合は「知る者」=「見る者」=「自己」の安心立命の全面的解決を求めているのです。向こうの問題ではなく、内在的超越の問題です。全面的解決とは、肉体も生死も時間も空間も超越した安心の境地でなければなりません。当然、あらゆる仏教学的、真宗教義学的な説明も、最後は捨てられなければなりません。教義の解釈言葉をいつまでも撫でまわし信を獲たと勘違いしている人は、実は「教義解釈の言葉の城」を偶像崇拝しているにすぎません。観念の偶像崇拝です。真実信心とは、自我という偶像も破れ、死後にさんぜんと輝く浄土と阿弥陀の偶像も破れ、「不一不二」=「一にあらず二にあらず」、ただ一面の南無阿弥陀仏の称名念仏になることです。南無阿弥陀仏の六字の声が全宇宙(霊性的自己)の常住の家になったことを、即得往生ともいい、住不退転ともいうのです。

 

■ ですから、法話においては、宗祖のお言葉を引用し、経典の言葉も紹介はするのですが、その言葉の知識教育を目的とするものではありません。
 福岡県飯塚市、ここは御法地で立派なお同行が輩出される土徳のあるところですが、明光寺様に法縁をいただいたある時、隣寺の男性門徒の方が法座後のお茶席で、「わたしの好きな仏教語は、世間虚仮・唯仏是真(聖徳太子)、これ一つで十分です」と言われました。あとは「なんまんだぶ、なんまんだぶ」、ああ惚れ惚れとする決定心のお方よ。あれもこれも知っているという方もおられるでしょうけれども、「救い」になっているでしょうか。「わたしの人生すべてをかけて、順境逆境・喜怒哀楽の一切の境涯を貫いて、この言葉がどすんと響きました。五臓六腑に落ちました」という体験的事実を大切にしたいものです。覚えて知った言葉ではなく、身に落ち宿業の身と一つになった言葉が、その人を救う仏法なのでしょうね。歎異抄にいわく、・・・・・・聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしこと・・・・・・。この「つねの仰せ」が、まさに「その人に聞かれた言葉」だと思います。

 

 

■no.1 語られた人の言葉 2021/01/26 言葉は、語った人の言葉であります。言葉にしてみて、声に音に出してみて、自分で自分の言葉を聞いてみて、言えていたり、言えていなかったり、言い足りなかったり、どうも何か違うともどかしく別の言い方を探したり、人間は自分に向かって語り続けている存在です。人間からこの「自分に向かって語り続ける言葉」の不思議な働きをとりあげたら、自己が自己であることができなくなります。人間存在の最深部を維持し、自己を自己たらしめているもの、人間存在の最終地平は言葉です。人間は言語存在です。だから、「語った人の言葉」には、「語った人全体」が乗りうつっています。「語る」ということは、「自分の言葉に出会う」、「自分の言葉を聞く」ということです。「法話を語る」場合も同じです。「語らせていただいた」、「今日は、大事な深い自己を言葉にさせていただくことができた」という経験は、聞いて(聴いて)くださる方々に支えられ、助けられております。自分から生まれ出た言葉の音色や表情や論理や情感は、自分から出たと言えばそうでありますが、うなづき、見つめてくださる方々の呼吸や表情や沈黙に支えられて、初めて成立するものです。だから、自分でも意外にも(今日は)深く的確に言い当てられ、語らせていただいたという経験も生まれますし、今日はてんでダメだったという経験も生まれます。噺家さんもそうでしょうが、毎日毎座が初舞台、初稽古なのです。わたしは幸せです。聞いて(聴いて)くださるご門徒が住職を育てていてくださるからです。わたしは、外に講師で招かれた時の自分の法話はすべて、時々は自坊の日々の法座で語った法話(テーマを決めて挑戦)も、言葉をICレコーダーで聴き直します。最低3回は聴き直します。不要な間の取り方、不要な繰り返し、あまり好ましくない言語表現、話の筋の展開のまずさもチェックします。野球の投手が、自分の投げた球が活き球か死に球かを一球一球確かめるように、せっかくいただいた一期一会のご縁を「学びの宝」にしないのは、僧侶としてもったいないことだ思います。自分から出た言葉が、どのくらい深い自己から発露しているのか、どのくらい深い孤独や闇から救いを求める声なのか、自己を学ばない言葉は死語なのです。自己の心底に響かない言葉が、人に届くはずがありません。■ここからは、脱線補足になりますが、わが宗門(否ほとんどの宗教者といってもいい)の僧侶養成において、僧侶が門信徒に向かって「語る教義」・「教義の説明のための例話」・「語ってはいけない差別用語」・・・・・・・・ つまり僧侶の口からでる言葉の事柄の教育はなされていますが、「そもそも言葉とは何か」=「言語論」の教育も問題意識の提案もなされてはいません。仏教学院や布教使養成においても、法話の筋立てメモの作成指導と法話実習はあっても、「自分の法話を録音して必ず聴き直しなさい」という教育はなされていないようです。わたしがある時、「自分の法話を聞き直してみなさい」と言いましたら、「気持ちが悪い」という僧侶の言葉が返ってきました。「自分で気持ちが悪い言葉を、門徒には聞かすのですか?」と、わたしは問い返しました。応えはありませんでした。文章の一番の読者は著者本人です。法話の一番の聴き手は、説法者本人です。噺家さんが、一本の古典落語を高座にあげるまえに、たった一人壁に向かって何度も何度も語り聴き、語り聴きして、師匠の味に近づこうとするその姿は、尊敬して見習うべきです。わが宗門の教育には、「現代言語論」・「現代人間論・「現代人間関係論」が欠如不在です。浄土真宗の教えの特徴は、「@ 本願他力」、「A 往生浄土」、「B 悪人正機」と教学パターンを鵜呑みに習って、これを説明すれば法話になると教える指導者も習う研修生も、がんじがらめのブロイラーの鳥かごの中に安住している集団依存。むしろ、習ったパターンからはみ出して仲間内から冷笑されないようにと戦々恐々として、死語の観念(冷凍保存のレトルト仏教語)の説明話からいつまでも脱出しようとしない。そもそも自分という裸の人間から産まれでた宗教的問いから始まっていないから、「それでは自分が救われない」という実感がない。体験がない。死んではじめて往生できるような浄土で、自分は活き活きと仏法が語れるのか。自分自身はいま救われているのか。自分の言葉、自分の表現を探そうとする苦悩がない。単独者となって集団から離れて、道を深めようとはしない。人間は集団化すれば、必ず集団依存・集団埋没に堕ちる。集団の中にいるという帰属意識が人間をダメにしている。ある方からの年賀状で、「コロナ禍でいよいよ浄土真宗も店じまいの時がきましたかな?」、と「?」のお言葉をいただきました。じっと文字に眼を止めましたが、「コロナ禍」は環境です。宗教が滅びていくのは、環境のせいではありません。宗教者それ自身が、宗教に真なる意味で「自己の全存在的救い」=「往生浄土」を失った時です。『蓮如上人御一代記聞書』にいわく、「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。」余計なところに話が脱線したが、わたしは常々そう思っている。この「一人」におのれ自身が成れるか成れないまま僧侶の飯を食い続けるのか、面々の問題なり。
■ 話は元に戻る。「人様の前で語らせてもらえる人生を生きれる」とは、なんという幸せ者でしょうか。宝石の鉱脈も掘り続けねば到達しないように、「仏法を語る」、「自己を言葉にする」という道も、「書かせてもらえること」も「語らせてもらえること」も、毎日初舞台、毎日初稽古なのです。何年も何十年も言おうとして、その核心部の周辺を徘徊するばかりで到達できなかった言葉が、ある時声となって飛び出す経験、鉱脈に宝石を発見した経験こそ、僧侶の命だと思うのです。(注)ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは「人間が言葉を語る」のではなく、「言葉が語る」という命題をだし、「人間は言葉が語る言葉を聴かされている存在」と規定しましたが、本稿では混雑を避けるために、この考察は取り上げませんでした。gensho 2021/01/26

 

■ 救われるということ【連載】を思いつくままに書いております。引用文が多く読みにくいと思いますが、ともかくざっと素描で書けるところまで書いてみます。お寺の法座で、「救われる」ってどういうことなのか、突っ込んで語る法話が少ないです。特に、「死後の浄土往生」だけでなく、現代を生きる人間の救いとは何なのか、「この身、今生の救い」を語ってみたいのです。

 

救われるということ・連載 1〜22

 

■ 救われるということ:22  親業
 3月2日の年度末役員会で発行する寺報「蓮華座・巻頭言」を書きました。本論からは少し脇道に入りますが、わたしは、「救われるということ」は、無条件の絶対受容の阿弥陀さまの親業に遇うことだと思いますので、関連します。この世を一切超えた、地上の善悪も価値も生死も超越した絶対無限者の懐中に帰るしか、われら一人一人の孤独者が「この身今生のこのまま、まったく独りのまま全体者に成れる」という場所は成り立ちません。「救われるということ」を書き始めたときから、若い頃に学んだ、今もわたしの人格形成の根幹にあるカール・ロージャースの「非指示的療法」・「カウンセリング」の学びの体験もリンクして共鳴してます。屋根裏の書庫に入って数冊の本をかかえては降りてきて、机のまわりがにぎやかになってきました。「巻頭言 親業」は、字数の関係上、紹介にとどめました。2019/03/03 夜通しの春雨を聴きながら。玄章

 

 ■正定寺通信「蓮華座・31年3月号・第1面 親業」より
二十代の若い頃から、「カウンセリング研修会」という会合で学びました。仏教を少しだけ学んで帰って来たわたしに、父は幼稚園勤務を命じたのです。年数をへて父が設立した栄松幼稚園の園長になったのですが、専門的な教育学も福祉学も幼児教育も学んでは来なかったわたしには、日々の現場で園児と向き合うにはカウンセリングの学びが必要でした。
 相手(園児)の心(言葉)をできるだけそのままに、その言葉のとおり「聴く・きく」という実地トレーニングです。三泊四日、朝から晩まで合宿して学びました。教師・看護士・保育士・児童相談所職員・僧侶、いろんな方が全国から集まっていました。そこでは年齢も職業も経歴も特別扱いはありません。わたしも「あまこさん」です。カウンセリングワークショップと呼ばれる研修会に、毎年3〜4回は参加していました。
 その会で紹介された本の一つがアメリカのトマス・ゴードンという心理学者(カウンセラー養成指導者)の書かれた『親業』です。子供を産んで、衣食住を与えていれば「親」というわけではありません。親に成るには、どんな職業よりも尊い専門的な学びを必要とします。子供を育てる、これほど大事な仕事をしているのに、「親と子はどう会話すれば心が通いあうのか」、親に成るためのトレーニングをしたり、専門的な知識を学んだりということは、あまり聞いたことがありません。
トマス博士は、序文でこうのべています。「親は非難されるが訓練は受けていない。何百万という新しい父親や母親が毎年生まれ、人間の仕事のなかでもいちばんむずかしい仕事につく・・・・ほとんどなにも自分でできない小さな人間の肉体的、精神的健康に全責任を負い、生産的、協調的で、なにか貢献のできる社会人に育てあげるという親業に。これほど困難で、能力や努力を必要とする仕事がほかにあるだろうか。
 しかも、そのための特別な訓練を受けた親が何人いるだろう。親業者のためにどんな訓練プログラムがあるというのか。親業を効果的に果たすのに必要な知識や技能を、いったいどこで手に入れたらよいのだろう」。
 博士みずから、親の悩みや混乱の現場に学び生まれた著作『親業』は全米に広がり、「親業訓練 PET=Parent Effectiveness Training」(親としての役割を効果的に果たすための訓練)というグループトレーニング学習法に発展しました。今では世界各国で学ばれています。
 わが子を死にいたらしめる親の暴力・虐待のニュースが後を断ちません。「親子の会話のしかた」の知識がない親は、感情的・権力的・命令的に威圧して子供を従わせようとする傾向がありますが、うまくはいきません。親が子に大人になるための教育をほどこすのであれば、親自身も「親」になるための自覚的・自己変革的な教育を自らに課さねば、親の人格向上は望めません。大人(親)は、自らが幼児期から親や大人にされた躾や教育、そして時には体罰や命令への忍従を、次世代に対して無自覚・無反省に繰り返すことになってしまいます。「親に成る」とは自分がどう変わることなのか、自問自答し、日常の親子の会話の現場で実践可能なまでに具現化したトレーニングが『親業訓練 PET」(親としての役割を効果的に果たすための訓練)です。聴き方・話し方にも技能がいるのです。おもてには見えないけれど、日々あちこちの家庭で親子の対立、傷つけあいが起こっています。トマス博士の『親業』を再び読み返して、親子がさわやかに共に成長していける知識や技能の必要性を、あらためて感じています。正定寺住職

 

 

■ 救われるということ:21  対応表
 ここ2〜3日、執筆よりも、【 A列:阿弥陀如来 と B列:わたし 対応表】のネットアップに頭が動いていました。ホームページソフトではなかなか微細な表作成ができなくて、エクセルで原稿作成、エクセルデータ形式からCSV変換をへてHPソフトで読み取るという手順があることをソフトメニュー上に発見して、試行錯誤を繰り返しているうちに、まあまあ納得できたのでアップしました。
 今後の執筆の構想として、【対応表】にあらわした「A列・B列」の対立概念をながめながら推論することが可能になりました。【対応表】は、2段目A列は「絶対・無限・独立・唯一・・・・」と関連していく「現世超越の論理」です。3段目B列、「相対・有限・依存・多数・・・・」と表現している一連の言葉は「現世束縛の概念」を並べました。「現世束縛」とは、わたしの生きている姿です。自業自得に縛られ、時間空間に縛られ、死への存在としてこの世に置かれている凡夫の有り様です。
 1段目の番号は、1〜6までは清澤満之の『宗教哲学骸骨』によります。満之が宗教の本質(骨髄)をこのように捉えていたことがわかります。この把握は、シュライエルマッハーの『宗教論』にも、西田幾多郎の『善の研究』の宗教観にも呼応しています。
 7〜16はわたしの推論です。純粋宗教の本質であり生命線は、われら凡夫が「超個我・超時間・超空間・超因果」に超えていく現世超越性にあります。本稿と同時進行している「大無量寿経の根本問題」にも「大無量寿経の時間論」にも中心軸として関連していきます。
 「言語誕生・言語帰順」と試みに対峙してみましたのは、「宗教と言葉」の問題です。「言葉はどこから誕生したのか」、人間を人間たらしめている最終的根本地平は言葉です。阿弥陀如来の名号も言葉です。人間存在の迷いも悟りも最底辺から支えている「言葉とは何か」を問うたところに、浄土仏教は大乗仏教のあらゆる立場を破って独立宣言し、独自の人間救済の教えを建立したのだと思います。大峯顯先生が遺された学業の鋭利な先端、「浄土教の言語論」、「なぜ名が救いか」への思索の道は終わってはいないという、わたしの意思表明であります。【対応表】をネットに置いておきます。そのうちこの教材を使うことになります。願わくば読者諸氏も【対応表】をながめながら、推理を楽しんでください。2019/03/03

 

 

■ 救われるということ:20  全体とは何か?
 一日にいくつも原稿書いて、夜中はやっぱり読書になって、午前中はご参詣された門徒と読経して語って、昼からは浅漬けの白菜天地返して漬け直したり、ポット苗の野菜の植え替え時季にもなったのでお世話したり、サンバーを駆ってなにやかやしたり、・・・・・・ して夕方が来たら、今日はお通夜にお参りして、そんなことしながら「声」が聞こえてきました。「玄章さん、あなたが【全体性の喪失】っておっしゃってる【全体性】って何ですか?」と。そこで昨年作っていた【表】をアミダネットに載せてみて、ながめてもらいながら続きの話を書こうかな、語ろうかなと思いました。これが今日の一日。2019/02/28 玄章

 

■ 救われるということ:19  全体性の喪失:2
 いのちの存在の全体性が見えない時代、存在の根拠が隠されてしまった時代に、われわれはいるのではないでしょうか。身近な例でいいますと、町中から魚屋が消えました。量販店にある肉も魚もパックに入っています。鯛・鯖・鰺・鰯・鮹、一尾一尾大小ちがった姿のまま店頭にある魚屋が懐かしくてなりません。家から10qの隣県財部町にK鮮魚店が逆風の中生き抜いていました。店主はわたしと同年とわかり益々うれしく通っています。最初に目にとまったのが、「町内最後の生き残り魚屋」という板に手書きの看板でした。オコゼもアンコウも姿のままあります。お願いすれば、市場から競り落としてでも注文の魚を売ってくださいます。農業も小売店も大工さんも製材所も、まだ近隣に見える日本の田舎:山田は幸せなんだと思います。
 これが画一都市化すればするほど、自然の移ろいの全体も、人間の生きているいのちの全体も見えなくなってしまう。
 職場や組織の部分と個人の部分の利害の接点関係、それが仕事。なにもかもお金がなければつながらない生活者と商品との関係。ここでは人間個人の全体性も細分され、自然全体の季節感も切断されて、人間は巨大な何物かにせかされ支配され従属させられている意味不明の歯車でしかありません。そのような時代が来始めたことは、20世紀の初頭にヨーロッパでも天才たちは気づいていました。自分が自分を確認できない、不気味なマスゲームが始まっていたのです。TOP法話 第3話も聞いてみてください。27日深夜。

 

 

■ 救われるということ:18  全体性の喪失
 自己の全体性ということを、まだ機械化されてなかった、農作物の流通経済も発展していなかった時代のお百姓さんを例に考えてみたいと思います。
 自然の中で農作物を作るには、お百姓の全人生経験と感覚が必要です。土を知り、種を知り、肥料を作り、季節の時節到来を知って、籾を蒔いていました。全国には駒ヶ岳という名の山が多数ありますが、雪解けの時期に駒(馬)の残雪形が見られることから農業の目安になったのだそうです。木曽駒ヶ岳には、中岳には山名の元にもなった駒(馬)、極楽平の南には島田娘と種蒔き爺などが現れるそうです。天地の運行、山から降りてくる季節風、山の雪形、桜の開花などとお百姓さんの人生時間は、人生全体と自然全体が交流し語り合いながら生きていたのだと思います。そこには大家族もおり、親族にも囲まれ、先祖の墓地もありました。そのような明治・大正・昭和までのお百姓時間は、まだまだ天地自然にも家族親族住民にも受け入れられながら、「自己がここに在る」という全体感が保てていたのだと思います。それは、海にでる漁師にも、山林ではたらく林業家にもいえることです。そして手仕事を代々つないできた工作人もそうです。手仕事生産の全工程に自己がかかわっていたからです。陶芸家は土を探し求めることから始まります。窯を築き薪を割る作業もかかせません。ロクロを引くだけが陶芸家の仕事ではなく、生活のすべてが製作でした。機織り・草木染色・木工・打ち物金具、すべての仕事です。働き、物を作り産み出すという営みは、自己の人格表現だったのです。一つ一つが人生への記念碑だったのです。わたしは、そのような独りひとりの人生時間に支えられて、仏教とりわけ浄土真宗は生きてきたのだと思っています。文明の基盤が破壊されるとき、仏教という種子が芽吹き存続していく精神土壌も枯渇するのです。
 しかし、戦後の都市型物質文明は、そのような人生の時間を奪っていきました。明治維新の日本西洋化によって急速に始まった、西ヨーロッパ発の近代科学・技術・合理主義文明は、日本をも科学主義・能率主義・経済最優先主義の物質優位文明へと追い立てずにはおきませんでした。今日の日本文明を仮に画一都市型物質文明と呼んでおきましょう。そこでは、人間個々人は組織(国家社会・団体・職場・学校)に管理され従属されて生きております。組織と個人の関係は、部分と部分という接触でしか成り立っていません。いかに医療・福祉が完備されても、わたしの人格全体を必要とはしません。まして、わたしの生死を解決する関係も力も有してはいません。「わたしはどこから来たのか。わたしはどこへ行くのか。わたしは何者か。わたしが生まれてきて生きるという最終的究極的な意味はなんなのか」、そういう問いを不問にし、自己のある部分と組織のある部分が接触して成り立っているのが、組織の管理社会なのです。わたしたち現代日本人は暗闇迫る終末を感じながらも、なんだか満たされない、なんだか不安で孤独で空虚な得体のしれないもやもやの中にいるのではないでしょうか。
 現代日本人、都市型物質文明人の心も人生も、存在をあげて救うもの、これが真実の宗教です。2019/02/27

 

 

■ 救われるということ:17  全体性の場所
 宗教的救いとは、わたしが全体になれる場所の発見です。絶対無限の大慈悲心、唯一・全体・いますでに完成・無条件受容の阿弥陀如来のまえに、自己の生死を見いだし、いつわりなく、ごまかしなく、虚飾もかなぐり捨てて、喜怒哀楽の全身全霊の自己を投げ出せることです。その消息を、示寂を前にした法然上人の死の直前の1月23日、弟子の源智の願いに応じて書いた遺言『一枚起証文』に見ることができます。建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷で入寂。享年80歳。
 「前略 念仏を信ぜん人は、たとひ(釈迦)一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。[為証以両手印] 浄土宗の安心・起行、この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまつたく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ」
 親鸞聖人は、『歎異抄』第2条に、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とあります。第十八条には、「聖人(親鸞)のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと」御述懐されたと唯円坊は記録しています。
 蓮如上人は、『御文章』一帖七に、「ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまふといへるはこのことなり」とおおせです。大峯顯は、『蓮如のダイナミズム』で蓮如上人の『御文章』に繰り返しでてくる「根本語」は「たすけたまえ」であるといっておられます。法然上人、親鸞聖人、蓮如上人それぞれに表現の言葉はちがいますが、宗教的救済とは、如来の全体と衆生独りの全体が「南無阿弥陀仏」という名号(言葉)の通路を貫通して一体となり、衆生(その人そのまま)の全存在の意味が回復されるという到達極点は同じです。阿弥陀如来が念仏の行者(その身)を摂取したまうという信心決定の消息は、迷いつづけてきた疑い・迷い・造悪・生死流転の凡夫のままで、今生において自己が完成し、全体性が回復されたということです。2019/02/27

 

 

■ 救われるということ:16  至徳の尊号
 明治の宗教哲学者・清澤満之は、阿弥陀如来のことを「絶対無限・如来」と呼びました。如来は唯一であり、全体であり、完全です。そうとしか在りようがない大生命です。如来は、慈悲心と加害心という相反する二つの心を持つことはできません。無限は自己を分割できないからです。如来は、衆生が生きている現世では信心を与え、死後の来世では往生浄土を与えるという時間的前後の分割もできません。絶対無限は、超時間・超空間・超因果の世界ですから、いつでも・どこでも・だれにでも・無条件に自己自身のすべてを恵み与えています。
 そのことを親鸞聖人は『教行信証』、「信巻・至心釈」に、「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」といわれたのではないでしょうか。阿弥陀如来の「至心・まごころ」が全身です。そのまごころ全体が衆生の体温に届いてはたらく姿が「至徳の尊号・南無阿弥陀仏」のお念仏です。

 

 

■ 救われるということ:15  分割不能
 絶対無限なるもの、とは「唯一」であり、「全体」であり、「完全」です。相対有限なるものとは、長短・大小・前後・軽重・部分・自と他として存在しているものです。相対有限なるものは、自己自身だけでは「全体」にはなれません。ですから、比較・計量・分割・数値化が可能です。しかし、絶対無限なるものは、どこまでいっても自他を分割する境界はありませんから、自己の全身で一切の相対有限を包むしかありません。絶対無限なるものが相対有限なるものにみずからの何かを与えようとするならば、一時にすべてを与え尽くすしかないのです。絶対無限は、自己を分割できません。
 比喩的に申しますと、太陽は、この地球上に住む70億人の人類に70億分の1ずつ自らを分配することはできません。姿も光も熱も、太陽の全存在をその時その時一瞬も休みなく与え続けています。太陽光が70億分の1ずつ、人間一人ひとりに共同分配されたならば、この世は一瞬にして闇と氷の世界となって、全生命は死滅するしかありません。
 地球上の空気は、70億分の1ずつ平等に人間に分配しているかといいますと、そうではありません。地上3000mの高地でさえ息苦しいのですから、70億分の1になったら生きれません。わたしはよく、「都城には海がありますか」と質問します。「いいえ、ありません。宮崎市や日南市に行かないと海はありません」という答えが返ってきます。しかし、地球上のどこにも海は在るのです。月面は大気も海もないので、日照時間の月面温度は135度、日没するとマイナス180度になるそうです。われわれが夜も室内で寝ておれるのは、地球上に大気と海、山河大地・森林河川・田畑が温度調節をしていてくれるからです。もちろん、太陽も大気も海も山河大地も、絶対無限ではありません。人間のものさしでは計り知れない大いなるはたらきの比喩としてみたのです。われわれは、絶対無限のおおいなるはたらきに一瞬も休みなく守られ恵まれています。2019/02/27

 

 

■ 救われるということ:14  少欲知足
 昨秋に息子(副住職)が、福岡で行われた九州地区青年布教使研修会に参加しました。夕食をかこみながら、「どんな研修会だったの」とたずねますと、「これからの本山の布教のテーマは少欲知足ですすめるということでした」との返事でした。 わたしは、「少欲知足」の文言は、『大経 上巻』だよね。「忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり」とあるから、その文脈は、「衆生(人間)よ、少欲知足の生活をしなさい」という指示・訓戒ではなく、染(欲)・恚(怒り)・痴(愚痴)の心をなくして、衆生をありのままを認め受けとめられたということです。親鸞聖人は、至心釈に『大経』のあとに『無量寿如来会』を引用されて、「もろもろの衆生において、つねに愛敬を楽ふことなほ親属のごとし。{乃至} その性、調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において、つねに慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし」の言葉を引いておられます。つまり、衆生への要求・指示・訓戒・命令・加害の心を起こさず、ただただ親族を想うがごとく、愛敬の心・慈忍の心をいだいて、衆生をいつわたり、へつらったりしなかったということです。
 しかし今日、「少欲知足」という言葉は、これらの大経全体文脈とは切り離されて「人間の少欲知足の生活」という意味で使われることが多いです。少なくともプロの僧侶・布教使は、言葉の出典を大事にすべきです。
 それともう一つは、人間は内面の精神世界において、「自分であること」、「自分という唯一の生を恵まれていること」への満足心がないならば、存在の不安・空白を満たすために外界の「食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲」等々を追いかけるしか道がないのです。清澤満之は、「精神的世界は充分を与うる所なり。物質的世界は不足を惹起する所なり」といっております。内面が満たされず、自己を生きる肯定感が育てられていない者にとって、物質欲・金欲を減らし少なくすることなどできません。外界の環境や物質への欲を満たすことが自己の存在の保障である者に、「少欲知足の生き方」をしなさいというのが、僧侶の仕事だとは、わたしは思いません。
 「あなたのままでよい」と絶対無限の親様が受けとめておってくださいますよ、と「各各安立・独りひとりを安んじて立たしめる精神の満足」こそが先なのです。2019/02/26

 

 

■ 救われるということ:13  至心・如来のまごころ
 親鸞聖人は、主著『教行信証』の「信文類」で阿弥陀如来の「至心」の心を解釈して「如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」とあります。阿弥陀如来は、ご自身の「至心のまごころ」を「煩悩・悪業・邪智」の衆生にめぐみ与えられたと説いています。その直後に「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦きことなし。もつぱら清白めて、もつて群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事しき。大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」の大経の言葉を、その根拠として引用しておられます。
 「煩悩・悪業・邪智の衆生」に愛欲・悪意・加害の考えでのぞむのではなく、清浄のまごころで衆生をあわれみ受けとめられたと、親鸞聖人も読まれたにちがいありません。「あなたを煩悩・悪業・邪智の姿のまま受けとめ抱きしめて救います」という如来の「至心・まごころ」が凡夫の身に飛び込んではたらく姿が、音声となった「なんまんだぶ」であるとおおせなのです。2019/02/24

 

 

■ 救われるということ:12  梵文和訳
 『浄土三部経』(現代語版・本願寺)では、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし」の現代語訳は、「その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。むさぼりの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、むさぼり・怒り・愚かさを離れていた」となっています。この現代語訳ですと、法蔵菩薩がひとりの修行者として、自己の煩悩に打ち勝ち耐え忍ぶ力をそなえていたことはわかりますが、衆生救済のための浄土建立であり、「衆生への忍・認の心の完成」であることがはっきりしません。法蔵菩薩はすでに、「讃仏偈」・「四十八願」・「重誓偈」で誓いをのべ、「われ世において速やかに正覚を成らしめて、もろもろの生死・勤苦の本を抜かしめん」と一切衆生の根本苦を救いたいといっている大経上巻の全体文脈からすると、ただ一般的な忍耐力の問題ではないことがわかるはずですが、本願寺版の「浄土真宗聖典編纂委員会」の訳では「忍・認」の意味が不明瞭です。
 では古代インドのサンスクリット語原文の『仏説無量寿経』(藤田宏達梵文和訳)ではどうでしょうか。「かれは、このような仏国土の清浄と仏国土の威徳と仏国土の広大さを達成して、菩薩の行を実践し、無量・無数・不可思議・無比・不可量・無限量・不可説な十万・百万・千万年の間、愛欲・悪意・加害の考えを決して抱いたことがなく、愛欲・悪意・加害の想いを決して起こしたことがなく、色かたち・声・香り・味・触れられるものについての想いを決して起こしたことがなかった。かれは、若々しく、魅力的で、温和そのものであった」となっています。梵文では、「忍・認証」は仏国土(極楽浄土)の建立の中心の決意であり、無限の時間の間も愛欲・悪意・加害の心を衆生に向かって起こしたことがないことが明確です。2019/02/23

 

 

■ 救われるということ:11  絶対無限
  阿弥陀如来は、アミターユス(無量寿仏)、アミターバ(無量光仏)が原語であって、いのち限りない光限りない絶対無限の仏様をあらわします。「あみださま」というように親しみをこめて人格的表現をしておりますが、明治の仏教者・清澤満之は「あみださま」とはいわず、「絶対無限」と呼びました。「絶対無限」ということは、競争相手もなく、圧迫を加える対立者もなく、比較対照する何物もありません。地球上の国家と国家ならば戦争や対立も成り立ちますが、国家(相対有限)と宇宙(絶対無限)とは対立することも戦争することもできません。ですから、法蔵菩薩(阿弥陀如来)がいわれる「忍」の立場は、絶対無限者・全体者・唯一完全者がみずからの内に包括する相対有限者(すなわち一切衆生の個々一一のいのち)に向かって、呼びかけ、全体者としての慈愛の心をあらわし、個々一一のいのちを救う誓いをおこすときの「忍・認証」なのです。
 ですから、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず」というときの「忍」も『大経』全巻をとおして法蔵菩薩(阿弥陀如来・絶対無限者)から衆生への「忍・認証」なのです。
 ここに親鸞聖人が読み抜かれた「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す」(顕浄土真実教行証文類・教巻)の『大経』の眼目があります。大乗仏典は『法華経』・『華厳経』・『涅槃經』・『般若教』・『維摩経』等々ありますが、他の経典が「衆生から仏へ」の上昇志向へ凡夫をいざない仏道修業をうながす方向であるのに対して、唯一『大経』だけが「完成された仏心から衆生へ」降下し還相廻向する方向で全編が語られているのです。還相廻向は、大経の「還相廻向の願」と通常いわれている四十八願の中の一つの願文で誓われている言葉だけではなく、そもそも『大経』が出現せざるをえなかった、『大経』の出自、『大経』誕生の根源の存在理由にあるのです。『大経』全編に説き開かれた言葉を一貫して流れ通底している精神は「還相廻向」です。2019/02/20

 

 

■ 救われるということ:10  忍終不悔
 「忍」は「認証」に通じており「認める心」という意味です。仏法で「忍」の文字を用いるとき、代表的に三つの場合があると思います。一つは、六波羅密(六度ともいう)といって、この人間世界から仏国土へ渡るための六つの修行徳目に「忍」の文字がでてきます。この世(此岸・娑婆・相対有限の世界・迷いの世界)からあの世(彼岸・浄土・絶対無限の世界)にいくための人間(修行者)がなすべき六教科です。布施・精進・持戒・忍辱・禅定・智慧の六つです。このときの「忍」は、人間(修行者)が辱め・妨害・圧迫・逆境に耐えしのぶという意味です。
 二つめは、三忍といって、音響忍・柔順忍・無生法忍(または喜忍・悟忍・信忍)の三つのさとりです。この場合の「忍」は「認証・理法をそれとして受け入れ認めさとる」の意味で、人間(修行者)が凡夫から仏のさとりの方向へ心の境地がひらかれていくことを示しています。
 三つめは、『大経 巻上』の「讃仏偈」の最後に「たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ」と法蔵菩薩が誓うときの「忍終不悔」と、「重誓偈」の後に出てくる「忍力成就」の言葉です。この「忍」も「認証・理法をそれとして受け入れ認めさとる」の意味であることは同じですが、「認める」の対象も方向性もまったく逆転します。法蔵菩薩(阿弥陀如来)が主語で、人間(凡夫)に向かって、みずからの高さを捨てて凡夫の低下に降りて認めるという「忍・認証」です。
 「たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ」という言葉は、古代インドのサンスクリット語原文の『仏説無量寿経』(藤田宏達梵文和訳)では、「わたくしは、阿鼻地獄に行って常に住しようとも、誓願の力を決してひるがえさないであろう」となっています。阿鼻地獄は八大地獄の一つで、現世で五逆などの最悪の大罪を犯した者が落ちる、地獄の中で最も苦しみの激しい所です。。法蔵菩薩の誓いは、「わたしは一切衆生をもらさず救いとるためには、衆生のいのちの底に沈殿する汚泥・煩悩・苦毒に降りて沈んでまみれて衆生と一体となったとしても悔いることはない」、「むしろ喜んで衆生の苦悩の根源を認め受容し一体となろう」という積極的な意味があるのです。対立者や逆境に耐え忍ぶというときの「忍」ではなく、病気の乳飲み子を不眠不休で守り抜く、病気に苦しむ赤子になりきって抱きしめる母親の感情にもたとえることができるでしょう。

 

 

■ 救われるということ:9  自覚・覚他
 中国浄土教の善導大師は、「仏・Buddha・ブッダ」の名がさししめしている意味を、『観経四帖疏・玄義分』をあらわして、「仏といふはすなはちこれ西国(インド)の正音なり。この土(中国)には覚と名づく。自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」と明らかにされました。
 仏教が、インド・中国・日本・世界のどこにあっても、どんな時代であっても、原始仏教(根本仏教)と大乗仏教のちがい、自力聖道門と他力浄土門のちがいはあっても、道を求めるその人(主体)の「自覚・めざめ」の教えであることにちがいはありません。「覚他」とは、他(人々)をもめざめにみちびき、共に仏道を生きるということです。「自覚」だけでは独善に陥るかもしれません。自らもめざめ気づかされ、人々からも教えていただき、他者をめざめに導き、共に育ち合っていく人間道場が人生ではないでしょうか。「覚行窮満」とは、その「自覚・覚他」のめざめの行いが常に満ち満ちてきわみがないということです。善導大師は、「仏・ブッダ」の文字をこのように解釈されたのです。仏教がさまざまな宗派に分かれていることは、「人間根本の目覚めとは何か」、「いかにして目覚めの心に到るのか」の見解のちがいといってもいいと思います。
 法蔵菩薩は、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず」の心に決着される前に、過去現在未来のあらゆる仏様たちの仏国を観察してまわられたと『大経・巻上』にあります。『勤行聖典』の「正信念仏偈」でも4行目から「諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」のところに相当します。仏の国々、迷い苦しみの凡夫の国々、天上界から地獄の底までを観察されて、「わたしはすべてのいのちを認め受けとめる仏になろう。どんな人々も、そのときのそのままに、疑わず隠れず逃げずおびえずに、心を開いて全身でわが懐に飛び込んで来てくれる親になろう」と決心されたのです。2019/02/20

 

 

■ 救われるということ:8  済度 
 同じ頃に、『暁烏敏全集』を買いました。何か糸口がほしい暗中模索のわたしに、第一巻『仏説無量寿経講話 上』の次の言葉は、大きな気づきを与えてくださいました。
 「済度」という言葉は、仏様がこの世で苦しみ迷うわれわれ凡夫を、安楽世界・さとりの世界にすくい渡してくださるということです。当時、わたしも「済度」とは、仏様がわれわれ凡夫に、よく・いかり・ぐちにまみれて生きている自己自身の姿を教え、導き、励まし、育てて、この人生において仏様に成る浄土への道を歩ませてくださることだと思っていました。ところが、ここに語られていた仏様の心は、「みずからを内省し、みずからの心を砕く」というご修行でした。驚きました。(以下、引用)

 

 「道を求めるということは、一切を済度することなんであります。一切を済度するということは、そのままわしが道を求めるということであります。済度ということは、人にものをいうて聞かして、人の悩みをなくするということではなくて、自分が一切のものに束縛せられず、一切をお慈悲と仰がれるようになることであります。ですから度世ということと人を救うということとは同じことで、他に説くことでなしに、内省することであります。我々は内省によって人を救うのであります。その人の頑ななことを知らす前に、その人を頑なだと思うその自分の心を砕くのです。そこに自分の心に映った向こうの影が頑なでなくなったときに、向こうが現実に自然と融けておるのです。仏教の衆生済度は、他を施設するまえに、自分の内に向こうを内省してゆく。そこに済度があるのであります。ですから修行することがそのまま済度することであります。願作仏心がそのまま度衆生心であります。『仏説無量寿経講話一』暁烏敏

 

 わたしには、この語り手の「わしが道を求める」・「修行」といっておられる言葉はそのまま、法蔵菩薩が「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず」、とみずからの願行の根本決心をなされた超絶無比の御心とつながったのです。古今東西、神も仏もなし得なかった大決定心、大安心に立脚されて、「大丈夫、お前は尊いぞ。お前は救われるぞ」と一切衆生に音声される御心は、「ああ、そういうことだったのか、なんという大逆転!」と、打ち破られ開かれていったのです。2019/02/19

 

 

■ 救われるということ・7  忍力成就 
 20代の頃、浄土真宗の根本聖典・『仏説無量寿経』は、延々とつづいて立ちはだかるレンガの壁のようでした。解説書を読んだり、講義を聴いたりしなかったわけではありません。しかし、腹底から「ああ、それならわかる」とうなづける言葉に一つも出会えなかったのです。阿弥陀如来の本願の話を聴いても少しも有り難いと思えない。経文の漢字の壁に圧迫される夢を見て、脂汗をかいて目覚めたこともありました。あるとき、ただ一ヶ所だけ読めたと思いました。無表情なレンガの壁の一ヶ所だけが、親しげな体温のある言葉として届いて来たのです。
 それは『大経 巻上』のこの言葉です。法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身)が世自在王仏の御前で、「讃仏偈」、「48願」、「重誓偈」を宣べられ、一切衆生をみな救うお浄土を建立なさったあとに、釈尊は仏弟子阿難に向かって、「法蔵菩薩は誓いのとおりお浄土を建立なされたよ」といわれます。そして、法蔵菩薩が「不可思議の兆載永劫」という悠久の時間をかけてご修行をされた「願いと修行」はどんなものであったかを話されるのです。
 「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず」。法蔵菩薩は一切のいのちをみな救うために悠久の時間をかけて修行され「徳と行」を完成された。そのご修行は、欲覚(人間に要求する心)、瞋覚(人間に怒りを感じる心)・害覚(だめな人間を罰し害を加えんとする心)とその想いを、みずから徹底的に砕くという内省のご修行でした。独りひとりの人間のすべての有り様に差別心や執着心を持たず、それがどんなに愚かな醜い姿であろうとも、すべてをそのまま許して受けとめようという心に決着したのです。これが法蔵菩薩の悟りです。「お前が苦しむならば、わたしも苦しもう。お前を救うためならば、地獄の底にでも汚泥のなかにでも、わたしの方から降りていこう」という忍(認)力が成就したのです。人間の一切の有り様を認めわが胸に受けとめようという絶対受容の心を完成されましたから、「衆苦を計る」必要がないのです。「お前の苦しみはまだ小さいから救いは後まわし、お前はだいぶましな人間だから自力の修行でいきなさい」などという心も想いも一切ない。「今すぐわが名を称えなさい。今すぐわが心を与えよう。お前の今のそのままを認め救いを完成しよう」というお心です。人間を計る一切のものさしを捨てたのです。法蔵菩薩(阿弥陀如来)は、欲覚・瞋覚・害覚の心をもって、凡夫と対立し裁く、要求と威圧の仏様ではないのです。
 ここが読めたとき、わたしの心に光が射しました。「それならお坊さんがやっていけそうだ」と袈裟・衣の着心地の悪さ・恥ずかしさが、少し嬉しさに変わっていったのです。若く何もかも未熟なままに、自分を認め落ち着けたのです。2019/02/18 玄章

 

 

■ 救われるということ・6  自身は現にこれ 
 中国浄土教の善導大師は、日本の法然上人・親鸞聖人に深く影響をあたえた先達です。自己が救済の門に入るには、深い内省の心、「深心・じんしん」が不可欠であるとのべています。「深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」と。自己自身は現にこれ、罪悪をかさね、生死に迷い、限りない過去から限りない未来まで、迷いが迷いを生み、罪業の輪はどこまでも転がって、未来永劫に脱出の縁がない者だと知れというのです。
 仏法を信じる。仏法に救われるということは、深く自己への絶望から入るのです。自己の現在地は絶体絶命の真っ暗闇であった。今は目先の欲望を追いかけながら、真っ黒い死の淵にふたをかぶせて見ないふりをしているけれども、虚無(むなしさ)と孤独と不安を解決する道がまったくないという深い内省が、仏法聴聞のアンテナとなるのです。2019/02/17

 

 

■ 救われるということ・5  凡夫病
 親鸞聖人は、救われがたい自己自身のことを「凡夫・ぼんぶ」といわれました。「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり」とのべています。われら人間はみな、煩悩に縛られています。貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚癡(ぐち)を三毒の煩悩といいます。貪欲(とんよく)、必要以上にむさぼり求める心。瞋恚(しんに)、いかり、うらみ、ねたむ心。愚癡(ぐち)、真理に目覚めない無知でおろかな心。その無明煩悩が身にみちみちて、臨終の一瞬をむかえるときまで心身を責め立て、一時も安らかにしてくれないのです。「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」という言葉を注意深く読んでみますと、どれも自己の外側に向けられた要求と感情です。自己自身の中心に向かって内省する方向が欠落しているのです。
 中国浄土教の曇鸞大師(どんらんだいし)は、阿弥陀様が人間世界をご覧になって大慈悲心を起こされたのは、人間がいつわりの世界(虚偽)、脱出不可能なくりかえしの世界(輪転)、おわりの見えない迷いの世界(無窮)に閉鎖されているからだと説いています。それはたとえば、尺取り虫が丸い円盤の淵を際限なく力尽き果てるまで循環するようなものです。尺取り虫にとっては棒状の身の丈、自分という我の寸法が全世界なのです。我の寸法でかがんでは伸びかがんでは伸びて、まだ足りないまだ足りない、楽になりたい楽になりたいと欲心の盤上を経巡っている。また、蚕が自分のはき出した繭糸でみずからを自縄自縛して死に到るようなものだとあらわしています。自分が作って自分が閉じ込められている牢獄です。その凡夫をはやく目覚めさせて安楽清浄の世界に脱出させてやりたいと願われたのが阿弥陀様です。われら凡夫は自己を超え、生死を超えた永遠の声を聞かねばなりません。2019/02/16

 

 

■ 救われるということ・4  憂田憂宅
 「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」とは、所有する者の苦悩です。田があれば、草が生えて憂え、害虫がわいて憂え、台風が来たらまた憂え、年をとったら農耕が自分でできなくなったと憂え、死んでも子どもが農業の跡継ぎをしないと憂える。田畑も家も子供も財産もしかり。持てば持つことの面倒さがつきまとう。ならば持たなければいいではないかというと、そうもできない。
 「田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければまた憂へてこれあらんことを欲ふ。たまたま一つあればまた一つ少け、これあればこれを少く」、これが人間業の欲心だと経典の言葉に容赦はありません。田畑のない人は、米も野菜も現金暮らし。家を持たぬ人は借家の家賃暮らし。持つ人をうらやんでは、自分も持ちたいと思う。けれど、持っても持たなくっても、「たまたま一つあればまた一つ少け、これあればこれを少く」、とあるように、どこまでいっても欲心の延長上だから安心がない。二千年、いや人類誕生よりこのかた未来永劫にいたるまで、人間存在は根本無明の迷路に在ると大経は説いています。「思想するも益なく、身心ともに労れて、坐起安からず、憂念あひ随ひて勤苦することかくのごとし」、ここで「思想」というのは、欲心という盤上を走らされて休む間もない思い患いのことであって、自己の根本病源にはまったく自覚がないことです。
 そのような人生の行く末は、「ある時はこれによつて身を終へ、命をほろぼす。あへて善をなし道を行じて徳に進まず。寿終り、身死してまさに独り遠く去るべし」。とうとう欲心の奴隷のまま命終わり、どこかわからない死の向こうに永遠の行方不明となる。宛先無記入・正体不明の迷いがまた次の迷いを生みながら永劫流転していくしかないと、われらの迷いを『大経 巻下』は看破しています。熟年登山で遭難しても、救済要請は「自己の現在地」を発信しなければ救済活動は発動しません。
 蓮如上人は『御文章』のなかで、「されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし」と、これが「すみやかに」という言葉の使いどころです。また「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」と、「はやく」とご催促です。われらが、「すみやかに、はやく」急ぐべきは仏法にあうこと一つ。他のことは、急がなくてものどは渇き、腹は減り、息はするのです。急ぐべきは「自己の現在地」を知ること。「自己は何処から来たのか。自己は何処へ往くのか。自己とは何者か」、この問いを持たない者は救済を求めないのです。迷っている者は、道を聞かない。

 

 

■ 救われるということ・3  遭難現場
 迷いのきわみは、自己自身が迷っていることに気づかない、迷いの自覚がないことにあります。認知症の人が徘徊するとき、ひたすらに真っ直ぐ歩くパターンが多いそうですが、自分がどこに向かっているか、今どこを歩いているかもわからないのです。それは現代の認知症に限ったことではありません。二千年前に説かれた『大経 巻下』に、「しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事をあらそう」とあります。天地は急いで運行しているわけではありません。われらは空気がなくなると恐れて急いで呼吸しているわけではありません。ましてや、急ぎ足で人間界に生まれてきたわけではありません。無心・自然の掌中にゆるやかに今日のまま運ばれています。ただ妄念妄想がわが心身を焼き焦がしているのです。欲心は燃やせば燃やすほどに、その対象は増えます。逃げます。「不急の事・急がなくてもいい事」を作りだしているのは自己自身なのです。
 自己の現在地が「欲心」であり、欲心を満たせば「安心」が得られると思い込んでいる。急ぐべきは、自己が煩悩欲心の大病人であることへの目覚めなのですが、その脚下の病源がわからないから、ひたすら欲心の奴隷となり果てて追い立てられ走らされているのです。
 「屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安き時あることなし。田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ」と言葉がつづきます。「欲心のために走り使われて、安き時あることなし」とは、人間存在の内奥の苦の根源を解決せず、外側の身体・健康・長寿・物欲・環境を満たせば安心・幸福が得られるとあくせくして短息を吐くのです。2019/02/15

 

 

■ 救われるということ・2  欠損パズル
 老病死が刻一刻と迫っている自己、この一大事の足音を聞かない者は、ついに一生仏法を求めることはないでしょう。たとえ世俗のいずれの生業の仕事人であっても、時間を惜しみ、わが身を惜しんで、この世に足跡を残さんとする本物の仕事人は、必ず人生無常の足音を刻々と聞いています。無常迅速を自覚する者だけが、自己の生命の完全燃焼を日々願うのです。ところが人間はなかなかわが身の非常事態を見ようとはしません。われら凡夫(人間はみな凡夫)は、この世に生きる救いとは、わが身の外の物質や環境や人間関係をわが思うように満たすことだと信じて疑いません。わが身の肉体の健康や長寿も、食べること、着ること、住むことも、欲しい物を所有することも外側の環境です。健康、長寿、家内安全、金欲、物欲、名誉欲、成功、何もかもが満ちたとしても、われら存在の内奥から不安と孤独を取り去ることはできません。
 この世のどのような事と物で満たしても埋めることのできない存在の空白を抱えている者、それが人間です。絵パズルは、まず全体の絵パネルが揃っているからこそ、組み立てれば完成することができます。しかし自己という人間の一生の生死を救う全体パズルは、この世の人や物や環境をどれほど満たしても、自分史にきらびやかな成功物語を書き残しても、描き上げることはできません。われらは、一番肝心な何物かが欠落している欠損パズルなのです。その欠損の空白を止めようもないすき間風が吹き抜けていきます。夢も希望も持って生きてきた人生だったけれど、振り返って来し方をみれば、ああ人生はこれだけのことであったのかと夕闇迫る身の寂しさを誤魔化し誤魔化し老いてゆく幕切れは、なんと哀れではありませんか。2019/02/14

 

 

■ 救われるということ・1  現在地
 仏法に救われるということは、いかなることでしょうか。世俗の営みにおいても「救われた」という言葉は使いますが、仏法においては、「自己の現在地が明らかになること」が救いの第一歩であります。
 シッダールタ太子(釈尊)は、『仏説無量寿経 巻上』(以下、大経と略す)に、「老・病・死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」とありますから、今現在のわが身が老病死を逃れがたい無常迅速の身であると悟られ、城も王位も棄てて出家を決意されました。この苦悩の現在地がまず明らかにならねば、出家も仏道修業も始まらず、物欲・財欲・性欲・権力欲にまみれた人生で終わるしかなかったのです。
 本願寺第八代蓮如上人は、「白骨章」に、「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」と示しておられます。浄土真宗の葬儀で「白骨章」を導師が拝読致しますのは、悲しい別離を縁としてはやく仏法を聞く人になってほしいという導きであります。「白骨章」は、「されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏申すべきものなり、あなかしこ、あなかしこ」の言葉で終わります。「一大事」とは身代わりのきかないわが身の現実をいうのです。『大経 巻下』に、「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし」とあります。誰もかわってくれない身代わりのきかない独りひとりが、明日のこともわからず今呼吸している、これ一大事であります。2019/02/13

 


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